微生物感染症の話 IV
感染症対策と衛生思想の推移
目次 はじめに 感染防御対策のの足取り 草根木皮を中心とした古代の薬 生薬の成分研究と免疫療法の誕生 合成化学薬品の登場 免疫療法の発展 ジェンナーとパストウールの業績 新旧型ワクチンを使い分ける予防治療法 血液製剤から抗体製剤への発展 殺菌消毒法の発展 古代から中世の頃の殺菌消毒 近代的殺菌消毒法の確立 化学療法剤開発の近代史 キナ皮に始まった開発の動き 梅毒特効薬発明までの苦闘 サルファ剤の開発とその展開 サルファ剤の誕生 サルファ剤作用機序の発見 抗結核サルファ剤発見以降 抗生物質の出現 分子標的治療薬─エ� �ズ治療薬の開発 感染予防に必要な衛生思想の発達 浮き沈みのあった西側諸国の衛生思想 インフラ整備の遅れた日本の衛生環境 |
[はじめに]
ヒトの感染症については、「ヒトが病原菌を捕まえるまで」で述べたように、19世紀後半に病原微生物が次々に発見されていった。やがて20世紀に入ると、薬物によってそれを制圧する手段が講じられるようになったが、本稿ではその経緯について説明することとなっている。その内容は感染症対策としての微生物制御に関する薬物の話が中心となるが、それらの薬物は使用目的に応じて異なった用語が用いられているので、まずそれらの用語について説明しておく。
殺菌剤(Germicide):微生物を完全に殺滅することを殺菌といい、そのための薬品を「殺菌剤」という。
� �消毒剤(Disinfectant):病原微生物を対象にして殺滅することを消毒といい、そのために部屋や排水溝などで用いる薬品を消毒剤、生体組織で用いる薬品を制腐剤という。
化学療法剤(Chemotherapeutic Agent):病原微生物感染者に投与注)して、生体にはなるべく害を与えずに、病原微生物の増殖を抑える化学合成薬品を化学療法剤という。最近はガンや自己免疫疾患(「微生物感染症の話 II」参照)などに対する薬品にもこの化学療法の語を用いるようになった。このように一つの薬物が患者の母体と微生物体(またはガン細胞など)に対して異なる毒性を示すことを選択毒性とよび、それぞれに対して毒性を発揮するための薬物濃度差が大きいほど、化学療剤としては望ましいとされている。化学療法剤については「化学療法剤開発の近代史」を参照されたい。なお次の抗生物質に対する用語として、合成抗菌剤というのがあるが、これは化学療法剤と同義語と見て良い。
抗生物質(Antibiotic Agent):微生物によってつくられ、他の微生物の発育その他の機能を阻害する物質と定義された言葉(ワクスマン、1941の提案)で、最近は化学療法剤の場合と同様、この定義が拡大解釈されて、微生物の生産するガン治療薬にまで用いられている。
抗微生物物質(Antimicrobial agent):化学療法剤や抗生物質を含めて用いる言葉。細菌、カビ、ウイルス、腫瘍(ガン)を対象とした場合、それぞれ抗菌、抗真菌、抗ウイルス、抗腫瘍(抗ガン)剤と呼んでいる。
注)投与方法にも種々あり、経口(飲み薬)、注射、点滴、経皮(皮膚塗布薬)、点眼など。
[一般的治療薬注)発展の足取り]
注)本稿は微生物感染症の問題を中心に話を進めることとなっているが、薬に関する限り、昔は 感染症もその他の病気も一体のものとして考えていたに違いないので、ここでは感染症の薬に限定することなく、一般的治療薬を対象としてその発展の歴史的背景を述べることとした。
【草根木皮を中心とした古代の薬】
病は神の祟りで起こると考えられていた原始時代には、病気になれば呪術と祈祷で対処していたが、その頃も薬のようなものは使われていた。効く効かないは別として、呪いまじないの道具としての意味もあった薬は、おおむね言い伝えに基づいた植物や動物材料のものが中心だった。いわば民間薬の走りとでもいえるものだった。
薬に関する最古の文献としては、前16世紀頃のエジプトの古文書パピルス・エーベルスがあり、それには当時の宗教思想を盛り込んだ医療技術が記録されている。当時用いられていた薬物の数は多いが、幾つかの例を挙げると次のようなものがあった。
植物薬:チシャ、ニガヨモギ、ケシ、ヒマシ油、ザクロ根皮、ヒヨス、ストリキノスなど
無機物:ナトロン(ナトリウム塩)、銅塩、亜鉛塩など
動物薬:ハンミョウ(昆虫)、種々の動物脂など
中にはこれらをビールやワインで煮出した処方もあった。
これらはその後中国で発達した漢方薬にそっくりであり、ケシ、ヒヨス、ストリキノスなど、毒性の強い薬も含まれていて、当時すでに毒をもって毒を制するという思想が芽生えていたことがう かがえる。
医聖ヒポクラテスの医療は薬にはあまり頼らなかったが、その時代(前5〜4世紀)になっても、薬の内容的には古代エジプト時代と比べて、それほど大きな変化は見られず、ようやく1世紀になってマテリア・メデイカという実証性のある薬学の基本を論じた薬剤論の書が出るにおよんで、薬は新しい時代を迎えた。当時活躍したガレヌスは様々な症状に適合した生薬の使用法を理論的にまとめたことから、その後生薬製剤をガレヌス製剤と呼ぶようになった。
一方中国では前漢時代(前2世紀)には、漢方の基礎となった「黄帝内経こうていだいけ� �」という古典が書かれていて、その中に「本草ほんぞう」と題して生薬の使用方法をまとめた書があった。そして後漢時代後期(紀元200年頃)に漢方の金科玉条とされている傷寒論が書かれたが、傷寒とはチフスのような病気のことであって、その治療に関連して、漢方の基本思想が示された。そして13世紀前後に「本草綱目」という漢方には欠かせない生薬の総合的解説書が出され、漢方の実践的指針が示された。この書物はわが国で江戸時代に固まった本草学に大きな影響を与えたものである。
1世紀後期にシルクロードが開設されると、インドと中国など東西間の交流が進み、薬物の交流も� ��んに行われた。さらに15世紀になると大航海時代に入り、スペインの海外進出もあって、南北新大陸からは煙草の他にアメーバ赤痢に有効な吐根とこんや、マラリアに有効なキナ皮がヨーロッパに輸入されるようになった。また16世紀に梅毒が流行した頃、梅毒に有効だと言われた南方の癒瘡木ゆそうぼくや、アラビアの水銀軟膏もヨーロッパに入ってきた。
【生薬の成分研究と免疫療法の誕生】
中世に入って各種各様の生薬が特定の病気に有効なことが分かってくると、生薬の中の何が効くのかという疑問が生じてきた。そこで生まれたのが薬の精という� �念である。当時水や酒を用いて、生薬からその精を溶かし出そうという試みからエキス製剤が生まれ、また12世紀には生薬をアルコールで溶出してつくったチンキ剤も出現した。さらに中世の錬金術学者は、生薬を水とともに蒸留して、生薬成分である油分を留出させる方法(水蒸気蒸留)を考案し、茴香ういきょうと薄荷はっかのそれぞれから、アネトールとメントールという揮発油成分を取り出すことに成功した。この成功は生薬成分の研究に拍車をかけることとなった。
17世紀に入ると、当時実力を付けてきた有機化学者の間に、阿片(ケシの実の乳汁の乾燥品)
やがて一つの生薬には単一のアルカロイドではなく、何種類も存在することが分かってきた。例えば阿片にはモルヒネの他に、ナルコチンや咳止め薬のコデインなども含まれているので、これらを副アルカロイドと呼ぶこととなった。また生薬成 分にはアルカロイドの他にも、配糖体(朝鮮人参の成分ほか)、酸性成分、中性成分など、各種の物質が含まれていて、それぞれに特殊な生理作用を示すことが明らかにされている。
このように生薬の有効成分についての知識が豊富になってくると、薬局では生薬に代わって成分そのものを生産し、販売するようになった。1830年代にドイツの薬局主、メルクはモルヒネ、キニーネ、エメチン(吐根成分、アメーバ赤痢特効薬)、サントニン(ミブヨモギ成分、駆虫薬)、コデイン(咳止め薬)などを生産販売し、後に世界的な製薬メーカーのメルク社となった。
このように医学界の関心が治療薬品に� �中していた18世紀末、ジェンナーが天然痘の予防治療に種痘を実施して成功したというニュースは、医学界に革命的朗報をもたらすこととなった。これがきっかけとなって、今でいう免疫学の研究が刺激されて、人の体内には、細菌のような異物が侵入してくると、複雑な免疫反応によって、これを撃退するメカニズムが用意されていることが次第に明らかにされてきた(「ヒトの生体防御戦略」参照)。そしてこのメカニズムを利用して、感染症などの治療に役立てるという「免疫療法」が確立されたのである。このことについては次の[免疫療法の発展]で述べることとする。
トルクと馬力の違いは何です
【合成化学薬品の登場】
19世紀に入ると石炭産業の盛り上がりの影響を受けて、化学界は石炭タールを原料とした合成化学の著しい発展を見せ、すでに述べたように(「藍染めの歩んだ道」参照)、いち早く染料のインジゴ(藍)を生産して染色業界に革命的旋風を巻き起こした。一方化学界ではアルカロイドのような植物成分の化学構造の研究も進み、19世紀終わり頃にはマラリアの解熱薬キニーネの化学構造が決定された。
そこでこれを契機に医薬品もタールを原料として合成できるのではないかという機運が生まれ、多くの化学者がこれに挑戦した。初めて合成に成功したのはキニーネの構造からヒントを得てデザインされ� ��といわれている解熱剤アンチピリンであり、ドイツのバイエル社から発売され、長い間好評を博した。
こうして先ず生薬から有効成分を抽出し、その化学構造の決定した後、それと類似構造の化合物を幾つも合成し、その中から本来の生薬成分よりも有効で、しかも毒性の低いものを採択するという薬学研究の定石ができあがった。有効薬品の開発に関わるこの研究方法は、その後も引き続き受け継がれ、現在も一部では本質的にはこの研究方法に準じた手続きで開発が進められている。
[免疫療法の発展]
【ジェンナーとパストウールの業績】
かなり昔から病気の動物を食べるとその病気にかからないとか、� ��トは一旦一つの病気に罹ると、もうその病気には罹りにくくなるという言い伝えがあった。中国では宋の時代(10〜13世紀)には天然痘(痘瘡とうそう)が流行すると患者の痘粒や痘液を未感染者に接種する「人痘接種」が行われていて、当時の医学書にも詳細に書かれている。この人痘接種は一部西欧でも行われ、またわが国にも伝えられ実施されていた。しかし人痘接種はかなりのリスクを伴うので、西洋でも東洋でも一般には普及していなかった。
イギリスの乳搾りの女の間では、一旦牛痘(ウシの痘瘡、ヒトにも伝染する)に罹ると、ヒトの天然痘が流行しても罹患せずに済むと言われていたが、18世紀の後期、� �る農夫は前記のような人痘ではなく、牛痘の接種を行って成功したので評判になっていた。イギリスの村医ジェンナーはこれに注目して、組織的な研究にとりかかった。
彼は1796年、先ず8歳の健康な少年に、牛痘症のヒトから取った材料を接種したところ、接種部に軽い発熱と炎症を起こしただけで大事にはいたらなかった。そして6週間後にその少年に人痘の膿を接種してみたが、何事も起こらなかった。そこで牛痘に罹患したことのある10人の人達にも協力を求めて、同様に人痘を植えてみたが、誰一人として天然痘に罹った者はいなかった。その後もこの種の実験を繰り返し実施し、間違いなく効果を挙げることを知った。彼は牛痘から取った材料をワクチン注)と名付け、ワクチンについての研究結果を論文にまとめて学会に発表しようとしたが反対されたので、やむなく1798年、自費出版して世に問うこととした。
注)ワクチン(vaccine)の語源はvacca(雌牛)からきており、その後パストウールが狂犬病ワクチンをつくり、これを狂犬病予防のために接種したとき、彼はこれを「ワクチネーション(vaccination)」(予防接種)と呼んだ(1880年)。こうしてワクチンやワクチネーションという言葉は痘瘡だけでなく他の感染症にも拡大して用いられることとなった。
ジェンナー論文は一時批判の的となったが、1802年に英国議会が彼に賞金を与えたことから一般に認 められて、イギリスのみならず世界的に実施されるようになり、それまで業病として恐れられていた天然痘の流行も次第に姿を消していくこととなった。わが国でもはじめインドネシアのバタビアから入手した牛痘材料を用いて成功したのがきっかけとなって、1856(安政5)年、江戸の神田お玉ケ池に幕府の種痘所(後の東京帝国大学医学部)が設置された。
ジェンナーの画期的な種痘法の確立の後ほぼ1世紀経って、パストウールは、当時鶏コレラや家畜の炭疽病が農民の間に伝染していることを知り、その解決に腐心していた。その頃農民の間には、この種の病気は一旦罹患すると二度と罹� ��ないという言い伝えがあることに彼は注目し、牛痘接種にならって、その予防治療についての研究を進めた。
彼が考えた方法は、問題となる感染動物から病原力の弱い弱毒化した材料を選びだし、それをヒトに接種するという方法であった。弱毒化した病原体の選出は、現在では遺伝学的には弱毒変異体を選ぶことであり、それほど難しい仕事ではないが、当時としてはかなりの難事業であった。しかし彼の飽くなき努力の結果、遂に1880年、鶏コレラ菌のかなりの弱毒株を手にして、所期の目的を果たすことができた。彼はその翌年、同様の方法によって炭疽病や狂犬病の弱毒ワクチンの作成に成功した。彼は晩年もこの種の研究を続けてその栄光に満ちた生涯を閉じたの� �ある。
【新旧型ワクチンを使い分ける予防治療法】
ジェンナーにしてもパストウールにしても、たまたま対象とした病気は痘瘡や狂犬病のようにウイルス性の病気であって、当時はウイルスはもちろん病原細菌にしてもその存在はそれほどはっきりしていなかった時代であり、しかも免疫理論があったわけではなく、ただ民衆の言い伝えからヒントを得て開発したのであった。
すでに「ヒトの生体防御戦略」で詳しく述べたように、ヒトの体内では複雑な生体防御システムが動いていて、細菌やウイルスのような異物が体内に侵入してくると、獲得免疫によって侵入者(抗原)に対して抗体などを生産して対抗できるように十分な準備が整っている。この完璧ともい えるシステムを巧みに利用してデザインされた製品がワクチンであり、これによってそれぞれの感染症の治療並びに予防に役立てている。
このようなワクチンは、現状では微生物の存在も知らなかったような時代に作られた古典的なものから、確固たる免疫理論に基づき、遺伝子工学技術まで導入して作られたものまで、様々なものが使用されているが、残念ながら全ての感染症に適用できるまでには至っていない。ただ病原微生物と並んで、ガン細胞に対してもこの方法に準じた免疫療法が実施される時代となっている。現在用いられている病原微生物を対象としたワクチンを種類別に区分すると次の4種となる。
1. 生ワクチン(弱毒性ワクチン)
2. 不活性化ワクチン(死菌ワクチン)
3. トキソイド
4. サブユニット・ワクチン
これらのうち生ワクチンはジェンナーやパストウールが最初に手掛けたもので、病原体は生きていて抗原性は保持されているが、病原性の弱い弱毒株を用いている点に特徴がある。このワクチンは効果は大きいが、元の強毒株に復帰する可能性もあるので、安全面で問題を起こす場合がある。これに対して不活性化ワクチンは菌をホルマリンなどで殺菌して作ったもので、安全性は最も高い。なおウイルスの生ワクチンは抗体のほかにキラーT細胞(「獲得免疫活動の仕組--獲得免疫に関わる因子の構成」参照)を作らせるが、不活性化ワクチンは抗体を作らせる� ��けである。
次にトキソイドは菌体外毒素をホルマリンや抗毒素などで処理して毒力を減殺し、抗原性を保ったままの変性毒素である。また最近発達してきたサブユニット・ワクチンは遺伝子工学技術を駆使して、病原体の表層タンパク質(抗原)の遺伝子情報を大腸菌などに組替えて、抗原タンパク質を大量生産させたり、抗原の遺伝子情報をプラスミドに組み込み、そのDNAをヒト体内の特定細胞に入れて、直接抗原情報を発現させたりする方法である。
これらの各種ワクチンは次の表に示すように、かなり広汎な病原細菌およびウイルスについて作られている。現状では病原真菌についてのワクチンはない。
ワクチンの種類 | 微生物 | 感染症 |
不活性化ワクチン (死菌ワクチン) | 細菌 ウイルス | 腸チフス*、パラチフス*、コレラ*、百日咳、肺炎 日本脳炎、インフルエンザ、B型肝炎、狂犬病 |
生ワクチン (弱毒性ワクチン) | 細菌 ウイルス | 結核菌(BCG) 痘瘡*、麻疹、風疹、おたふくかぜ、水痘、ポリオ、黄熱 |
トキソイド | 細菌 | ジフテリア、破傷風 |
サブユニット・ワクチン | ウイルス | B型肝炎、インフルエンザ、エイズ、単純ヘルペス |
*印のついた4種のワクチンについては、現在わが国ではほとんど使用されていない。
赤色文字の3種のワクチンを混合したものを「三種混合ワクチン」という
このようなワクチンに関連して、ある感染症に対する動物の抗血清や健常人のγ-グロブリンを対応する疾患、例えばジフテリア、破傷風、ボツリヌス、麻疹などの患者に注射(皮下・筋肉内)して治療する方法もあるが、これを血清療法と呼んでいる。ただ動物の血清の場合には異種血清なので、血清病を起こすおそれがある。
感染症の予防のためにしばしばワクチンを使用するが、使用に当たっては「予防接種法」という法律に準じて実施されている。それには対象とする感染症の種類によって、定期接種(勧奨接種)、臨時接種などが決められている。また「結核予防法」によってツベルクリン反応注)陰� �者に対してはBCGの接種が行われるが、これは任意接種とされている。
注)ツベルクリンは結核菌の培養液からタンパク質を抽出し、それを希釈して作成した物で、これをヒトの皮下に注射した後に現れる発赤反応の程度を測定し、その人が結核菌に対して免疫があるかないかを判断する。
ワクチンのことを語るとき、この事実を忘れることはできない。それは1980年、WHO(世界保健機構)が行った天然痘絶滅宣言である。何千年もの間人々を悩ましてきた天然痘が地球上から姿を消したことについての公式宣言であった。この宣言が� ��されたのには様々なそれなりの根拠があったのだが、何といっても種痘の世界的な実施が大きく貢献したことは否定できない。ここにあらためてジェンナーの功績の偉大さをたたえたい。ただ皮肉なことにこの年、新たにエイズが発生することとなったが、この恐るべき病気に対して現状では残念ながら免疫療法はいまだに道遠く、また化学療法も抗生物質もこれぞというものはまだ見つかっていない。
WO- USC -300のスケールを校正する方法
【血液製剤から抗体製剤への発展】
感染症に限らず重篤な病気には輸血は欠かせないが、17世紀の頃から輸血の試みが実施され、多くの犠牲者を出すという傷ましい経過を経た後に、20世紀初頭にランドシュタイナーによる血液型や血液凝固因子の発見が契機となって、輸血技術が改善され、次第に多用され、多くの人の命を救った。
その後人の血液をそのまま用いる代わりに、遠心分離機を用いて血液成分を分画して、液状部分の血漿や血小板のような細胞成分を取り出し、それぞれの機能に応じた病気の治療に応用するようになった。そして血漿はさらに免疫グロブリンやアルブミンなどに分画され、
近時、遺伝子工学技術の発展に伴い、ノーベル賞受賞者ケーラーとミルスタイン(1984)の研究が基礎となって、以下に述べるような抗体の生産技術が確立されてきた。マウスに特定の抗原を与えると、血液中のB細胞がその特定抗原に対応した抗体を産生するが、同時にB細胞を無限に増殖する機能を持つ骨髄腫細胞(ミエローマ細胞)と混合培養すると、両細胞は合体して、これら細胞の特性(抗体産性と無限増殖性)を共有したハイブリドーマと呼ばれる細胞となり、B細胞の特定抗原を認識した単一クロー ンのもつ情報を担った抗体、モノクローナル抗体を生産する。これに対して通常の血漿分画製剤に含まれる抗体は多種多様の抗体を含んだポリクローナル抗体で構成されているが、モノクローナル抗体は目的とする特定の抗原にのみ対する純粋な抗体であり、臨床上も安心して利用できる点に特徴がある。
[殺菌消毒法の発展]
【古代から中世の頃の殺菌消毒】
昔のヒトは伝染病などが発生すると、患者の衣服などを焼却したり、極端な場合には家まで焼き払って清めていたというが、これはまさに結果的には殺菌そのものが行われていたのである。また病人が出ると、燻煙によって一種の厄払いを行ってい� ��が、これは実質的には今でいう防疫作業そのものに他ならなかった。
防疫については化学的な方法も行われていた。紀元前数世紀の頃、硫黄の燻蒸(亜硫酸ガスが発生)が行われていたし、木の葉や枝を焼いて作ったあく(アルカリ)の散布もしていた。またガレヌスの時代(2〜3世紀)になると、外傷の消毒に「赤酒包帯」といって、ワインなどのアルコール飲料を包帯に浸ませて用いていた。その他、手指や傷口の洗浄には煮さましの水(無菌水)を用い、体の洗浄には樹脂と灰で作られていた石鹸を使用していたという。14世紀頃にペストが流行した時代には、町々で篝� �かがりびを焚き、周辺に酢をまき、また人々は盛んに酢を飲んだと言われている。こうして菌の存在を知らなかった時代にも、現在の知識で考えてもおおむね理にかなった方法を駆使して、ミアスマ(「神の祟りから始まった初期の病原論」参照)の除去に気を配っていたのである。
中世も終わりを告げる頃、感染症の病因についての考え方も少しずつ進んできて、病原としては目には見えないが、小動物のようなものではないかという説が浮上してきた。もしそうならば、その小動物を殺してしまえばよいという結論になるのは当然である。この考えに沿って、18世紀のチフス流行時には酸化窒素による燻蒸が行われ、19世紀初頭には晒し粉 さらしこ(次亜塩素酸カルシウム)による感染創の消毒、さらには当時上水の消毒にも晒し粉が使用されるようになった。
【近代的殺菌消毒法の確立】
19世紀前期、ハンガリーで産婦がしばしば産褥熱さんじょくねつに悩まされていた頃、ある病院で、一つの病棟には産婦人科医の教育用に妊産婦を多数収容していた。ところがその病棟で産褥熱が発生すると瞬く間に他の病棟にも伝染して、まさに今でいう院内感染が起こった。そこで指導医のゼンメルワイスが注視したのは、教育病棟で働く若い医師たちが診療後、よく手指を洗わずに他の病棟に行って、また診療していることであった。そこで彼� �医師たちを集めて診療後晒し粉で念入りに手指などを洗浄するよう指導したところ、次第に産褥熱の院内感染は鎮静化した。そしてその後一般病院でも医師や看護婦の手指の消毒が励行されるようになったとはいえ、そこまでなるにはかなりの時間がかかったという。
その後間もなくイギリスの外科医リスター(1865)は、当時パストウールの実験から、空気中には腐敗を起こす「小動物」が塵埃に乗って多数浮遊していることを知り、手術後によく化膿するのは、おそらくその「小動物」のためではないかと考え、手術に当たっては事前に手指や手術用の器具、手術材料などを十分消毒しなければならないことに気がついた。そして当時町では汚物処理にフェノール
こうしてリスターは外科手術に消毒の技術を導入したが、なかなか徹底せず、ヨーロッパの医学界に消毒の概念が十分浸透するにはその後20年の歳月を要したという。一方、アメリカではハルステッドが外科手術に薄手の滅菌ゴム手袋を使用することを発案し、この方法は世界中の病院で現在も行われている。
こうして感染の予防や消毒、あるいは手術などに殺菌消毒剤が有効なことが分かり、やがて病原菌の存在を明らかにしたコッホの時代(19世紀後期)になると、晒し粉やフェノールのほかにも種々の殺菌剤が開発されていった。今世紀に入ってからは赤チンの名で有名になったマーキュロクロムが盛んに用いられたが、これは水銀製剤であり、同じ水銀剤であり、20世紀前半には盛んに用いられていた昇汞とともにに姿を消し、またそれ以前から使われていた硝酸銀も使われなくなった。またエタノールにヨードを溶かして作ったヨードチンキは、1893年に発明され、南北戦争で用いられて以降、つい最近まで盛んに用いられていたが、刺激が強いため次第に余り使われなくなった。
現在使用されている殺菌消毒剤としたは、次のようなもの(上段無機物、下段有機物)がある。
過酸化水素(オキシフル)、次亜亜塩素酸ナトリウム(ピューラックス)、消石灰
エタノール、ホルマリン(ホルムアルデヒド)、クレゾール(クレゾール石鹸液として使用)、
ほか下記参照
ここでオキシフルやピューラックスは強力殺菌剤で入手しやすく、消石灰は伝染病発生時の土壌の消毒に用いられている。
エタノールは古来、ガレヌス時代の赤酒包帯、13世紀頃のワイン包帯、18〜19世紀のわが国の火酒(焼酎)綿布など、各地 で外傷に用いられてきたものであり、現代になってもその重要性に変わりはない。エタノール以外のアルコールではイソプロパノールが用いられている。ホルマリンやクレゾール石鹸液も消毒剤としての利用価値は高いが、特にホルマリンはその毒性故に特別な場合以外、余り用いられなくなった。そして上記のヨードチンキに代わって、有機ヨード製剤であるポピドンヨード(イソジン)が消毒薬あるいはうがい薬として広汎に用いられている。さらに刺激性のほとんどない陽(逆)性石鹸注)は現在医療現場でも盛んに用いられている。
注)通常の石鹸は脂肪酸のナトリ ウム塩であるのに対し、陽性石鹸は長鎖アルキルアンモニウム塩である。すなわち石鹸としての機能を担う主要残基が、前者はマイナスの脂肪酸イオンなので陰性石鹸であり、後者はプラスのアンモニウムイオンなので陽性石鹸ということになる。「塩化ベンザルコニウム」のように、殺菌消毒剤として用いられている陽性石鹸分子には、特殊な長鎖アルキル基が存在し、これが表面活性性と強い抗菌作用を発揮するのである。
以上は化学的殺菌法について述べたが、物理的殺菌法も種々考案された。発明者「シンメルブッシュ」で名の通っている煮沸滅菌器、パストウールの考案した乾熱滅菌器、そしてシャンベラン考案のオートクレーブ (加圧滅菌器)は現在でも医療用として欠かせないし、筆者など微生物学研究者が散々御世話になった道具である。さらに20世紀初頭には紫外線滅菌法が考案され、またシャンベランの考案した陶土製の濾過滅菌器はウイルス実験などに用いられ、さらに合成樹脂多孔性薄膜のメンブランフィルターは滅菌のみならず多目的用途をもっている。
[化学療法剤開発の近代史]
アルテック木工、ナイアガラの滝
【キナ皮に始まった開発の動き】
古来ヒトが病気になれば、医師としては、その原因は分からないまでも少しでも患者の苦しみを和らげるような薬を使って治療に努めてきた。従って昔はもっぱら対症療法が中心であって、高熱には解熱薬、下痢には下痢止めといったような具合であった。病因が分からないので当然ではあるが、根本的治療法はほとんど行われてはいなかった。
すでに新大陸が発見され交流が始まった17世紀前期に、スペインの学者がペルー土民インデイオの民間薬である「熱木」という木の樹皮がマラリアに対して特効を示すことを報告した。これはキナ皮とも呼ばれ、間もなくスペインに輸入された。� ��れを知ったオランダは監視の目をくぐって、現地で原植物を入手し、これを植民地のジャワ島に移植し、さらに品種改良を続けて優良品種の育種に成功し、これを盛んに栽培して世界中に輸出した。そして19世紀初頭になると、キナ皮の有効成分であるキニーネが抽出されたのである。しかしキニーネはマラリアに対して顕著な解熱効果を挙げることはできても、病原体を殺す効果はもっていなかった。
これに対して新大陸からフランスに持ち込まれた吐根はアメーバ赤痢に対する本格的な治療薬であって、19世紀初頭にはその有効成分であるエメチン注)が抽出され、その後これはメルク社から製造販売されたことはすでに述べた。
注)筆者は太平洋戦争中後半は、海軍療品廠というところで医薬品の製造と研究に携わっていたが、当時南方の戦地では将兵がアメーバ赤痢に悩まされてていた。しかしエメチンが品不足で困っていたので、筆者は大学の恩師菅沢重彦先生の指導で、当時製薬会社の倉庫に多量に溜まっていたセファエリン(デスメチルエメチン)というエメチンの副アルカロイド(エメチンの製造工程で分離したもの、治療効果なし)を化学的に処理してエメチンに変換し、これを戦地に送り届けて大いに喜ばれたことがあった。エメチンにまつわる筆者の懐かしい想い出である。
【梅毒特効薬発明までの苦闘】
19世紀後期になると、病原菌が次々に発見され([ヒト病原菌の発見」参� ��)、一方では種々の殺菌消毒剤の使用も一般化する時代となってきた。そこで病気の治療に当たっては、旧来のように対症療法ではなく、個々の感染症の病原菌をターゲットとした薬物によって治療しようとする動きが出てきた。その先鞭を付けたのが細菌の染色法や斬新な免疫理論で名を挙げたドイツのエーリッヒ(コッホの高弟)であった。
彼の考え方は免疫理論でもそうであったように、「ものは結合しなければ反応しない」という原則に基づいており、病原体の細胞(彼は細胞の表面と考えていた)にある特殊な標的物質(現在でいう受容体)と特異的に結合する薬物を探し求めることに努めたのである。この場合、病原体とはよく結合するが、ヒトの 細胞とは結合しないような薬物が理想的であると考え、このような病原菌に対してのみ選択的に毒性を発揮する性状(選択毒性)を備えた感染治療薬を化学療法剤(Chemotherapeutics)と呼んで、殺菌消毒剤とは明確に区別した。確3かにその頃の殺菌消毒剤は病原菌に対して強い毒性を示すと同時に、ヒトの細胞に対しても毒性をもっていることを彼は知っていた。
ここでエーリッヒの考え方について、近代に至るまでに標的物質についての考え方が変わってきたことを説明しておきたい。まず第一は対象となる有害生物の細胞種は細菌細胞のみならず、ヒトのガン細胞にまで拡大され、また標的物質は細胞表面に限らず細胞内にも種々あるということである。次に有害対象細胞と宿主の健康細胞
宿主細胞には存在せず、有害対象細胞のみに存在する標的物質に対してのみ目標薬品は毒性を発揮する。
宿主細胞にも類似の標的物質は存在するが、有害対象細胞のそれとは同一でない標的に対して毒性を発揮する。
宿主細胞と有害対象細胞に存在する標的物質は同一物質であるが、その重要性が異なる標的に対して毒性を発揮する。
要は目標薬品の宿主細胞と有害対象細胞の標的物質に対のする選択毒性の相違に注目して、薬をデザインすることが求められているのであって、3番目ケースがデザイン上最も難しいことになる。それは抗ガン剤を開� �する場合、特に経験される点である。
エーリッヒが上記理論に沿って化学療法剤を開発していく過程で手掛けた薬品は、成功、不成功に係わらず数々あるが、開発初期におけるその主なものは次の通りである。
年号 | 薬物 | 対象病原体 | 病名 | 実験結果 |
1891 1904 1909 1910 | メチレンブルー トリパンレッド アトキシル(有機砒素化合物) サルバルサン(有機砒素化合物) | マラリア原虫 トリパノゾーマ トリパノゾーマ スピロヘータ | マラリア 睡眠病 睡眠病 梅毒 | 不成功 動物実験有効、ヒトに無効 試験管内無効、動物実験有効 ヒトに著効、商品化 |
エーリッヒは最初に、マラリア原虫がメチレンブルーという色素(微生物の染色に普通に使われる)でよく染まるので、彼の結合理論からいって、有効の可能性が高いと考えたのでテストしてみたが失敗した。
そこでさらに色素による治療研究を続けることとしたが、当時ドイツのバイエル社では多数の合成色素を保持していることを知って、それを利用してトリパノゾーマによる睡眠病の治療実験を開始した。この研究は日本からの留学者、志賀潔(赤痢菌発見者、北里柴三郎の高弟)の精力的協力を得ることとなったが、その研究ではトリパンレッドという色素を用い、ウマの睡眠病 の治療実験を行った。その結果、極めて有効なことを発見したが、残念ながらヒトの睡眠病には効果を示さなかった。
20世紀に入って錬金術学者の間にアンチモンとか砒素のように、ある程度有毒な非鉄金属を病気の治療に利用するという試みがあった。この流れは以前に中国にもあったのであって、色素を用いた研究が必ずしも順調に進まなかったエーリッヒにとっては魅力を感じざるを得なかった。
そこで彼はアトキシルという有機砒素化合物を用いて、トリパノゾーマに対する試験管内実験を行った。これは試験管内に生きたトリパノゾーマの細胞を入れて、それがアトキシルで死ぬかどうかを調べる実験だった。しかしあまり有効ではないので、実験は中断していたが、イギリスの学者がアトキシル� �動物実験ではトリパノゾーマに対してある程度有効だという報告をした。
この報告に接したエーリッヒは早速動物実験を行ってみたところ、確かに一応有効であることを認めた。そこで試験管内では無効で生体内では有効という結果をどう説明するかについて、学者の間でいろいろ論争されたが、エーリッヒが最終的に出した結論は、アトキシルの砒素は5価であるが、これが生体内では還元されて3価となり、その3価の砒素が抗トリパノゾーマ活性を発揮したというものであり、多くの学者もこれに同意した。
その頃秦佐八郎はドイツでシャウデインと共同して梅毒の病原細菌スピロヘータを発見し、さらに北里研究所に帰って、スピロヘータに対する薬物の抗菌試験をするための動物実� ��システムを完成していた。そこでトリパノゾーマに対して3価の砒素が有効だということを知ったエーリッヒは、早速秦を招き、秦式抗菌試験法で入手可能な多数の有機砒素化合物を用いて実験にとりかかった。そして遂に606番目に用いたサルバルサンと命名された砒素化合物がスピロヘータに極めて有効であることを発見した。
このサルバルサン(わが国民間での通称は「六百六号」であった)はスピロヘータに対して試験管内では効力を示さないが、動物やヒトの体内では十分有効であった。しかし残念ながらヒトにに対してはかなりの毒性を示したので、エーリッヒと秦はその臨床的な使用方法として分割投与法を確立することによって、世界中の梅毒患者に福音をもたら� �こととなった。サルバルサンこそはまさに合成薬品による第一号の化学療法剤として世界にその名を馳せた薬物である。
【サルファ剤の開発とその展開】
#サルファ剤の誕生
微生物感染症の治療に関心をもつ者に対して、サルバルサンの発明が強烈なインパクトを与えたことは確かであって、これを機会に感染症の化学療法についての研究が各国で盛んに行われたが、そう簡単には進展しなかった。そしてサルバルサン発見の22年後の1932年、ドイツ、イーゲー染料会社のドマークが遂に赤色プロントジルというアゾ色素(アゾ基 -N=N- をもった色素)が化膿性疾患に極めて有効であることを発見した。
フランスのトレッフエルはこの物質が試験管内では黄色ブドウ球菌などの化膿菌に対しては無効なのに、ヒトの生体内では有効なことを知り、おそらくこの物質が体内でアゾ基のところで分解した結果、有効成分が生成されるのではないかと考えて、実験してみたところ、果たして2種の分解産物のうち、一方のスルホンアミド基(-SO2NH2)をもった部分が極めて有効であることを突き止めた。そこでこの物質を白色プロントジル(後の名称スルファミン)と命名した。こうして1935年に基本的なサ� �ファ剤が誕生したのである。
このようにスルホンアミド基をもつ化合物が抗菌作用を発揮することが分かると、莫大な数の類似構造体が次々に合成されてテストされ、やがて次々に数十種の製品が市場に出回ることとなった。初期の製品で、わが国の一般の人達でも知っていたようなものを挙げると、次のようなものがあり(括弧内は創出年号)、その需要は太平洋戦争後に抗生物質の出現するまで大いに伸びた。
プロントジル(1937) スルファミン(1937)
スルファピリジン(1938) ホモスルファミン(1940)
スルファグアニジン(194)、 スルファチアゾール(1941)
この他にも医師が選択に迷うほど多くの銘柄のサルファ剤が作られたが、それぞれに抗菌スペクトル(「抗菌性抗生物質」参照)の面で少しづつ異なってはいた。おおむね化膿性疾患をはじめとして、肺炎、チフス、その他種々の細菌性感染症に有効であった。こうしてスルファミンは化学療法剤の発展の起爆剤となった。
#サルファ剤作用機序の発見
ウッヅ(1940)はスルファミンが有効な細菌は、その成長にパラアミノ安息香酸というビタミン(生長素)を要求することを知り、スルファミンの化学構造がそのビタミンに極めて近似していることに注目して、次のように考えた。すなわちスルファミンはパラアミノ安息香酸よりも細菌との親和性が強いために、細菌はパラアミノ安息香酸の利用ができなくなる。要するに細菌は結合力のより強いスルファミンと結合してしまって、肝心のパラアミノ安息香酸を取り込むことができなくなるのである。この現象は別の言葉で表現すると、スルファミンとパラアミノ安息香酸と� �、細菌細胞に対して拮抗(競争)することであると結論づけた。このようにスルファミンの発揮する拮抗現という作用機序の研究は、その後化学療法剤開発研究に一つの方向性を与えたものとして高く評価された。
#抗結核サルファ剤の開発以降
当時、わが国は日中戦争に踏み切るなど戦時体制に入り込んでいった時代であったが、結核は国民病といわれたほど、国民、特に働き盛りの人達の間に蔓延していた。もっともこれは当時世界的な傾向でもあったが、そのため抗結核薬の開発は緊急のことであり、ウッズの研究は抗結核薬の開発に道を拓くこととなった。すなわち新しい抗菌� ��質を開発する手段として、細菌の要求するビタミンと近似した化学構造をもった物質を探せばよいことになる。この線に沿った研究で最初に成功したのは抗結核薬であるイソニコチン酸ヒドラチド(現在名イソジアニドまたはINAHアイナー)の開発であった。
結核菌はニコチン酸というビタミンを要求するが、この新薬はまさに化学構造がそれに近似していて、ニコチン酸との拮抗現象に打ち勝つことができたのである。INAHの出現は好感をもって迎えられた。そしてこの薬の出現と相前後して、いろいろな抗結核薬が生まれた。そのうちサルファ剤関連物質としてはプロミン、プロミゾール
こうして抗生物質時代の到来により、誰しもサルファ剤の時代は終焉したものと一時は考えていたが、。1950年代後半になって、排泄速度が遅いため、血液中に長期に存在する持続性サルファ剤が登場して一時見直されることとなった。さらに1970年代に入って、持続性サルファ剤スルファメトキサゾールと、サルファ剤とは� ��の抗菌薬トリメトプリムとの合剤(「合成抗菌剤」参照)が出現し、現在もサルファ剤の命脈は消え去ったとは言い切れない状況が続いている。
最後にサルファ剤に関連した余談となるが、実際にはサルファ剤に先立って開発されていた合成抗菌剤にキノフォルムというのがあった。1933年に開発されたこの薬は、腸管感染症に有効で、太平洋戦争中、私が海軍薬剤科士官として軍務に服していたおりにも、軍医が盛んに使用していたことを思い出す。そして戦後も万能胃腸病薬として一世を風靡した薬であった。しかしその後、副作用が問題となり、使用禁止となって姿を消した。
キノホルムと同様の運命をたどったのは1946年に開発� ��れたニトロフラン剤である。これは腸管、皮膚、尿路感染症、特に表在性化膿性疾患に外用としても広く利用され、戦後の冷蔵庫もなかった時代には、豆腐、ソーセージなどの食品添加物としても広く利用されていた。しかしこの薬も発ガン性のあることが指摘され、治療面でも食品産業面でも使用されなくなり、1970年代後半には製造中止となった。
【抗生物質の出現】
サルファ剤以降、化学療法の分野で特記すべき事実は、抗生物質の出現である。このことについては「近代発酵工業の先駆け─抗生物質発酵」にその開発創世期のことを詳述したので参照されたい。この抗生物質の出現によって、医療面では画期的な発展が見られ、、現在に至っている。
【分 子標的治療薬─エイズ治療薬の開発】
近時分子遺伝学の発展に伴って、生体の機能が分子レベルで解析されるようになってきた。そこで特定の分子構造をもった生体物質のみを標的分子とした治療薬をデザインする技法が編み出されてきた。このようにして開発された治療薬を分子標的治療薬と呼んでいる。感染症治療薬としてこの分野で最初に注目されたのがエイズ(「性感染症」参照)治療薬である(満屋裕明、VIRUS REPORT, 3, 40 (2006)(医薬ジャーナル社参照)。
エイズウイルスはRNAウイルスであり、その増殖に際しては逆転写酵素の関与することが知られている。そこで1987年にこの酵素を標的分子としてデザインされたのが逆転写酵素阻害剤であるヌクレオシド系のAZT(アジドチミジン)である。次いでエイズウイルスの増殖に特殊なプロテアーゼが関与しているという事実に基づいて、1990年代に入り、この酵素を標的とした阻害剤サキナビルが開発され臨床的な成功を収めた。さらに1996年には、ウイルス粒子が宿主細胞に融合(侵入)するのに必要なウイルス糖タンパクの機能と構造からデザインされた、T20という薬物も開発された。これら3種の標的結合機能を備えた治療薬の関連物質はそれぞれの薬物の発見に続いて次々に開発されていった。中� �も満田教授らの開発したダルナビルというプロテアーゼ阻害剤は「性感染症」のエイズで述べるように、極めて優れた治療効果を持ったものであり、最近特別な注目を集めている。
このような特定分子を標的とする治療薬開発のアプローチは感染症の分野ではインフルエンザや白血病などの治療分野にも影響を及ぼしたが、更にはガンをはじめとする難治性の病気治療にも大きなインパクトを与えた。特にガンの場合には、従来の治療薬は細胞分裂機構に作用する薬物が主体であったが、この種の薬物は正常細胞のうちでも細胞分裂が盛んに行われる毛根細胞のような細胞にも影響を及ぼし、脱毛などの望ましくない副作用をもたらしていたのである。しかし最近になって、ガン細胞特有の機能を標的とした薬物が開発されることに� ��って、ガン組織の選択的治療が可能になってきた(庄司真理子・茂木伸参照)。
2003年にヒトゲノムの約32億塩基対からなる塩基配列が決定された。しかしそのうちタンパク質に転写・翻訳されている部分は2%程度に過ぎず、その他の部分の多くは意味のない、いわゆるジャンクDNAと考えられていた。ところが最近、理化学研究所のグループによって、意味のないと考えられていた塩基配列のうちの70%以上がnon-coding RNA(ncRNA)として転写されていることが明らかにされ、ncRNAの多くはタンパク質発現制御機能に関与しているものと考えられた。
このような状況を踏まえて、ヒトゲノム情報を利用して治療効果が高く、副作用の少ない治療薬を開発しようとする動きが出てきたが、これをゲノム創薬と呼んでいる。ゲノム創薬の一つのねらいは、薬の効果にみられる個人差解消の問題である。ヒトゲノム解析の結果、塩基配列は個人個人によって、少しずつ異なっていることが明らかにされた。このことが薬の効果の個人差に関係があることは間違いないので、テーラーメイド医療という医療法が発案された。これは洋服を入手するのに、吊し物ではピッタリと合わないが、服屋に仕立ててもらうとよく合った服ができるこ� �から生まれた言葉である。化学療法や予防なども、個人個人のゲノム情報を把握した上で、それぞれの体質に適合した治療薬なり薬の量なりを決めるという仕組みである。実際にはゲノム創薬もテーラーメイド医療もまだ緒に就ばかりであって、今後の進展が期待される。
感染予防に必要な衛生思想の発達]
【浮き沈みのあった西側諸国の衛生思想】
昔の人達は病気になれば命を落とすことにもなりかねなかったので、病気にならないためには身の回りを清潔に保ち、飲食に気を配るべきことが、過去の経験だけに基づいて、しっかりと身についていた。紀元前千年以上も昔のエジプトでは、有害食物についての規程や道路・家屋などに関する衛生法規 を整備し、下水まで作っていた。旧約聖書にも爪や髪を短くし、入浴して白い衣服を着ること、さらに台所では器物をよく洗い、腐ったものは焼いてしまうことなど、事細かく書かれている。
ヒポクラテス(前5〜4世紀)は水、土、気の三者が病の原因であることを説いているが、この考え方はいみじくも衛生公害に悩む現代社会にも通ずるものである。またアリストテレス(前4世紀)は民衆に対しては体育の強化と入浴を奨励し、政府に対しては水道や浴場の設置を建言した。こうしてその後繁栄したローマ時代の都市衛生環境の整備は著しく進んでいて、病人の数も激減したといわれている。
その後中世のいわゆる医療暗黒時� ��に入ると、衛生思想も著しく低下して、民衆は極めて非衛生的な環境のもとで生活していた。14世紀のペスト大流行の頃は、ロンドンやパリでも、日暮れ時になると、二階の窓から汚物を路上にぶちまけていたという。そのうち17世紀頃までには下水道の整備も行われたが、屎尿が下水道に投棄されるなどして、下水道につながるテームス川もセーヌ川も悪臭漂う汚濁の川となっていた。19世紀になってもイギリスでは、産業革命が軌道に乗ったものの、人口は都市に集中し、衛生環境は相変わらず劣悪の状況に置かれていた。テームス川は汚濁が著しく、河畔の国会議事堂での審議はしばしば支障を生じたし、フランスではルイ十三世が王宮をパリからベルサイユに移したが、それはセーヌ川の悪臭から逃れるためだったといわ� ��ている。そのような頃、ヨーロッパにペストやコレラの大流行(「中世以降猛威を振るった感染症」参照)があり、多くの死者を出したことは当然であった。
その頃イギリスの法律家チャドウイック(1842)はこの状況を見かねて、労働者の貧困、疾病、不潔の悪循環を統計的に論じた報告書を作成したが、これがもとになって公衆衛生法や河川汚濁防止法が相次いで制定された。そして中央と地方に衛生局が設けられて近代的な公衆衛生の行政組織ができあがり、汚物処理、上下水道などの環境整備が強力に押し進められた。こうしたイギリスでの先進的取り組みは、フランス、ドイツに続いてヨーロッパ各国における公衆衛生の インフラ整備を推進する刺激剤となり、多くの国々の民衆にも衛生思想が浸透していって、町々に明るさが戻ってきた。
下水処理の技術的方法は、生態系内における自然浄化のメカニズムを人工的に利用し、これを短時間内に始末できるように組み立てたものであり、20世紀に入ってほぼ完成の域に到達した。このことについては後に「自然浄化の原理を応用した廃水処理技術」で述べることとする。
【インフラ整備の遅れた日本の衛生環境】
ひるがえってわが国における衛生環境の来し方を見ると、古来仏教の影響から清潔を旨とする教えが徹底していたこともあって、少なくとも個人衛生に関する限り、長い歴史を通じて世界に冠たるものであったことは万人の認めるところである。
平安時代には長寿のための養生書が刊行され、室町時代には名だたる名医が毛利家に進言したという養生論では、今でいうストレス問題まで取り上げられており、さらに江戸時代の貝原益軒(1630-1714)による養生訓では、飲食についての注意と色欲についての戒め、そして病にかかっ� �際には、薬に頼り過ぎないようにすべきことなどが強調されている。
わが国の都市衛生について西欧諸国のそれと比べてみると、都市構造が異なっていたことが幸いしたと考えられている。西欧の中世都市は城壁に囲まれた狭い範囲内に多くの住民が集中し、汚物処理も不潔そのものだったが、わが国では住民は城郭の周辺に散在していて、汚物も汲み取り式で、農家の肥料として利用され、自然分解に任せてあったことは、後述のように理にかなっていた。そのため流行病の蔓延時にも、西欧諸国ほどの大きな被害は蒙らずに済んだ。
この事実は裏を返せば、中世西欧では公衆衛生上惨憺たる苦悩を味わったこともあって、上下水道の整備などをはじめとした公衆衛生インフラ整備の発達する動� �が、過去の強い反省の上にあったのに対し、わが国では個人衛生中心で事を運んできたために、それほどの苦労をしなかった気持ちの上の油断もあり、公衆衛生、特にそのインフラ整備への投資が著しい遅れを見せてしまった。
1873(明治6)年に文部省に医務局が設置され、2年後にそれは衛生局注)として内務省に移管された。明治初期の衛生行政は、もっぱら当時中国から到来したコレラを主体とした急性伝染病対策に忙殺され、その頃になってはじめて衛生統計が開始された。そして1897(明治30)年にようやく伝染病予防法が制定され(「伝染病予防法の抜本的改正」参照)、その後種々� ��食品衛生関係法規が制定されて、少しづつ近代的衛生行政の基礎が固まっていったのである。現在では公衆衛生の重要性が深く認識され、多くの医科系大学では「衛生学」講座とは別に「公衆衛生学」講座を設置して、その教育の充実を図っている。
注)衛生(Hygiene)という言葉は健康の女神ヒギエーネ(Hygiene)からきているが、わが国では古くから「養生」という言葉が衛生を意味していて、その後杉田玄白がオランダ語を翻訳して「健全学」という言葉を用いた。そして明治初期の初代衛生局長になった長与専齋が局名に「衛生」という言葉を採用し、それ以来これが定着することとなった。
わが国公衆衛生行政の遅れは下水道整備 の面でもはっきりしている。西欧と違って、たまたま屎尿などで水路が著しく汚濁したことがなかったことが、皮肉にも下水道整備の遅れた原因と考えられている。下水道らしい下水道が東京にできたのは、明治10年のコレラ騒動以降のことであり、大阪でもコレラの流行がきっかけとなって下水道の整備が始まった。そして太平洋戦争後しばらくしても下水の終末処理場を備えた都市は僅か6都市に過ぎず、現在でも下水道普及率は残念ながら後進国の部類に属している。
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