2012年4月11日水曜日

エジプト旅行記[アスワン]


カイロの中央駅であるラムセス2世駅。ロンドンのパディントン駅を思い起こさせる。

アスワン行きの夜行列車を待っているところ。

列車の切符。

アスワンへ向かう車窓の景色。

エジプトはナイルの賜物というように、緑豊かな風景が広がる。

が、南に上がる(?)につれ砂漠の景色になってきた。

アスワン。ナイル川に浮かぶ船上レストランで食事。

ナイルの夕景。

フィッシュ・タジョン。トマトソースにオニオン、ライス、白身魚の切り身を混ぜたものを素焼きの壷に入れて、オーブンで焼いたもの。

午前4時半。ツアーバスはここから隊列を組んでアブシンベル神殿へ向かう。

ホテルが用意してくれた朝食ボックス。

砂漠の夜明け。

砂漠の一本道をひたすら走り続けた。

世界遺産第一号、アブシンベル神殿。これは小神殿の方。

小神殿前から大神殿を望む。朝8時だがすでに大勢の観光客が来ている。

アブシンベル神殿。大きな像のモデルはすべてラムセス2世。

アブシンベル神殿の壁画。気のせいかSFっぽい。

アブシンベル神殿の壁画。捕虜になったアフリカ人の図。

アブシンベル神殿の裏側。

アスワンに戻って、ラクダ乗り。

私のラクダを引いてくれた少年。この笑顔はチップを期待していたから。期待に沿えずごめん。

ラクダは仲間と歩くのが楽しいみたい。

ここはサハラ砂漠の端っこでもある。

アスワンの名門ホテル、オールドカタラクトホテル。

JJの結婚式の時の写真。

JJの家で手の甲にヘナをしてもらった。

ヌビア人の家でヌビア料理を食べた。

鳥の舌スープ。塩辛い。

アスワンのバザール。アラビアンナイトの世界だった。

私が買ったラクダのじゅうたん。

夜のスーク(市場)にはなぜか女性の姿が多かった。

トイレ我慢の夜行列車

夜11時、ヴィクトリアホテルからタクシーに分乗してラムセス2世駅へ移動した。夜行列車でカイロの南700キロにあるアスワンへ向かうのだ。ラムセス2世駅まで歩いていける距離だが、途中ロータリーを渡らなければならない。バックパックを背負って深夜、カイロの殺人交通を集団で横断するのはかなりリスキーだ。


石膏はどのように抽出され

ラムセス2世駅は大きな駅で、ロンドンのパディントン駅に似ている。明日の朝食とおやつを買うため売店に行くと、珍しい味のポテトチップがあった。ぶどうの葉包みライス味。漬け物のような匂いで酸っぱい味のポテトチップだった。

私たちが乗る列車は出発が予定より1時間遅れ、午前0時45分ラムセス2世駅を発車した。私は出発直前に駅のトイレに行った後、次の日アスワンのホテルにチェックインするまでの14時間、1回もトイレに行かなかった。以前中国で寝台列車のトイレが凄まじかっことがあったので、エジプトの夜行列車でもトイレは我慢と決めていたのだ。凄まじい、というのは映画のセットか、というくらい不衛生だということ。

寝台車ではなく座席車だったが快適だった。シートは飛行機のファーストクラスとビジネスクラスの中間位の広さで、クッションも適度な固さだった。夜中に襲われたり、網棚の荷物が盗まれることもなく無事夜が明けた。ただものすごく寒かった。トイレに行かないと決めた身にはかなりこたえた。毒素が体中に回っているような気がした程だ。

車窓の景色は美しかった。ヤシの木が点在し、田んぼのように区切られた緑の畑。日干しレンガを積み上げた四角い家が密集している。ロバが歩いている。牛、ヤギの群れがそこかしこに見える。小さい子どもが、刈った緑の草を束ねて運んでいる。南に下るにつれ、景色は砂漠と岩山に変わってきた。

午後2時45分、アスワンに到着した。

アスワンはカイロに比べると空が広く、静かな町という印象を受けた。ナイル川がすぐそばを流れており、なぜか潮の匂いがした。ナイルホテルに投宿。エレベーターもあって、部屋は清潔で調度も整っている。ホテルスタッフも明るくて居心地のいいホテルだ。チェックインが済むとナイル川に浮かぶ船上レストランへ昼食兼夕食を食べに行った。このとき私が食べたのは、フィッシュタジョン。トマトソースにオニオン、ライス、白身魚の切り身を混ぜたものを素焼きの壷に入れて、オーブンで焼いたもの。半分位食べたところで、味に飽きてきた。

アブシンベル 砂漠の夜明け

アスワンに着いた翌日早朝、アブシンベル神殿へ行った。

アブシンベル神殿は、紀元前1250年頃ラムセス2世が建造した神殿で、ユネスコの世界遺産事業の一番最初のケースとなった遺跡だ。ナイル川上流にアスワン・ダムを建設するので水没するところだったのを、1955年ユネスコが救済計画を打ち出し、1968年に現在の地への移築を完了した。どのツアーでもアスワン観光の目玉になっている。

東を向いて建っているアブシンベル神殿を眺めるのは朝が一番よい。しかし、アブシンベル神殿は町から南に約240キロ離れたところにあるため、夜明け前にアスワンを出発しなければならない。日本のツアーだと飛行機で移動するのだが、私たちのグループは、地元のツアーバスを雇って行った。

午前2時半に起床、ホテルが用意してくれた朝食のお弁当(コッペパン、バター、クリームチーズ、いちじくのジャム、茹で卵、ブリックパックのミックスジュース)を持って、集合場所へ行った。この集合場所に他のツアー会社のバスも全て集まることになっている。テロを警戒して、バスが一列縦隊を作ってアブシンベルまで移動するのだ。先頭と最後尾にはツーリストポリスのパトカーがつく。

2月にアブシンベル神殿を訪れた人が「とても暑かった」と言ってたので、私はTシャツにガラベーヤ風ブラウスのみ着て行った。ガラベーヤ風ブラウスは昨夜アスワンのバザールで買ったものだ。ところが、この時期のエジプトは日本と変わらない気温で、私はアブシンベルに着くまでバスの中で寒さに震えていた。

バスは砂漠の1本道をひた走る。外は真っ暗で、車のライトが道路の縁を映してしているだけだ。空を見上げると満天の星。オリオン座はよくわからなかったが、ひときわ輝く星があった。あれがシリウス星か。違うと思うが...。


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午前5時半頃、東の地平線にうっすら赤みがさしてきた。でも天空にはまだ星々が輝いている。やがて地平線の赤みの幅が広がってくると、星が一つずつ姿を消していった。空の明るさに星の輝きがかなわなくなってきたのだ。赤、紫、薄黄のグラデーションが現れ、今まで見えてなかった岩々の影が見え始めた。ひときわ輝いていた私のシリウス星も薄らいで、とうとう消えてしまった。空の色がすっかり青くなり、しばらくすると太陽光線が地平線から放射され、太陽が昇ってきた。

私はこの時、iPodで音楽を聴いていた。マーラーの交響曲第一番「巨人」とベートーヴェン交響曲第七番。地平線に赤みがさして、空がすっかり青くなるまで、ぴったりのBGMだった。そして太陽が昇り始めた時のBGMは「ラプソディ・イン・ブルー」。この選曲はもちろん「のだめカンタービレ」による。

アブシンベル神殿の入り口にはすでに大勢の観光客が列をなしていた。アブシンベル神殿は二つの神殿から成っている。ラムセス2世の第一王妃ネフェルタリのための小神殿とラムセス2世本人のための大神殿だ。小神殿からはうるさいほど賑やかに小鳥の声が聞こえる。神殿の裂け目に住みついている鳥が朝の活動を始めたのだ。

大神殿の方にはどんどん人が入っていく。移転の際、神殿内の構造もそのまま復元された。壁画や像を見るので行列ができている。

壁画はとても興味深い。王が他国の兵隊を一網打尽にしている図、頭部が鳥や動物の形をした神々に王が祝福されている図。断崖をくり抜いて柱や部屋を作り上げた技術にも驚嘆だ。それをそのまま移築した技術にも。

ジョン・ウェストは、古代エジプトの人々は1万5000年以上前に存在していた私たちがまだ知らない人類の文明遺産をそっくり受け継いでいると言っている。それを半ば信じている私には、壁画の人物たちがかぶっている高さのある細長い王冠にも空想をかきたてられる。どんな素材を使ってこのような形の王冠を作ったのだろう。それに同じ大きさの壺が並んでいる壁画は、化学実験のための器具と容器が描いているように見える。何の実験をしていたのか。

アブシンベル神殿には世界各地から観光客が訪れていた。フランス人、スペイン人、インド人、アメリカ人、韓国人、中国人そして日本人。地球人博覧会みたいだ。

午前8時45分にアブシンベル神殿見学を終え、再びツアーバスの一列縦隊で砂漠を渡り、お昼頃ホテルに戻った。

ヌビア人のお家拝見

アブシンベル神殿から戻って昼寝の後、午後3時にホテルを出発して、ナイル西岸へラクダ乗りに行った。

ナイル西岸は、サハラ砂漠の東北端でもある。エジプトのラクダはひとこぶラクダで、乗り心地はなかなかよかった。後で筋肉痛になるかと思ったけれど、そんなことはなかった。ロバよりラクダの方がずーっと乗りやすい。

太陽が沈みはじめていた。とはいえ、たった1時間足らずでも、夕暮れの砂漠をラクダの背に揺られて行って、アラビアのロレンスの気分だった。

ラクダから降りる時、世話をしてくれたヌビア人の少年にチップをあげた。彼は一所懸命面倒をみたのに、私のチップの額が思ったより少なくて、とてもがっかりしていた。チップはいつでも私にとって悩みの種だ。私は現地の人が思うほど金持ちじゃないんだってことがどうしてもわかってもらえない。

アスワンにはヌビア人が多く住んでいる。エジプト人とは違う文化を持つアフリカ系民族で、先史時代からエジプトに従属するような交流が続いてきた。

ラクダ乗りの後、イントレピッドと契約しているファルーカオーナーの家のひとつに行った。ファルーカはナイルでよく見かける一枚帆のヨットだ。彼はヌビア人で、15ヶ月前に結婚したとのこと。私たちが行った家は、漆喰づくりで、部屋は5つぐらいありそうだった。通された居間には大画面テレビが置かれていて、ここで結婚式の時の写真とビデオを見せてもらった。シナモンティーをごちそうしてくれた。


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ポールはファルーカオーナーをJJと呼んでいた。JJは村では相当の金持ちだ。この家の他にも家を何軒も持っていて、何隻ものファルーカを所有し、何人もの乗り手を雇っている。

お嫁さんになった幸運な女性とJJは、ナイル川で出会った。JJがファルーカで川を行くと彼女が川べりで皿を洗っていた。ファルーカが立てた波で彼女は迷惑したらしい。それでケンカになった。ところがその後、何度も同じ場所で会うので、いつかお喋りするようになり、友達になり、恋人同士になった。

でも二人が付き合っていることを周囲には内緒にしていたので、道ですれ違ったときに二人だけがわかる合図を送って、決めた時間に決めた場所でデートしていたとのこと。

そういうわけで二人は15ヶ月前に結婚したのだが、結婚式は正式なヌビア式で行った。ヌビア式結婚式は3日間かけて行われる。1日目は下準備だ。料理の下ごしらえは女性陣がするが、調理は男性陣がする。2日目に伝統衣装を着て、3日目に洋装を着てのパーティが開かれる。写真を見せてもらったが、白いタキシードを着たJJと花婿の付き添いたちは、70年代のソウルシンガーに見えた。

ダンスパーティのビデオの中で、JJは滝のような汗を流している。このとき気温は摂氏47度だったという。イスラム教徒でもあるからか、会場では男性陣、女性陣がはっきり分かれて踊っていた。

結婚式3日目の夜、やっと新郎新婦は二人きりになる。その時新郎が新婦を笑わせたら結婚が成立する。新郎はお嫁さんを笑わせるためにいろいろ冗談を言うが、最後の手段として現金をちらつかせるらしい。それなら誰でもニコリとするでしょう。

結婚式はまだ終わりではなく、その次の日から義母が新郎を40日間もてなすことになっている。40日経つ前に婿さんが義母の家から出てしまうともてなし方が悪いと後ろ指さされるとのこと。

子どもが生まれて、男の子だったらすぐ割礼する。女の子だったら2歳になった時割礼する。女の子の割礼は必ずやる。やらないと噂になってお嫁に行けなくなると言っていた。でもイスラム教では女の子の割礼は禁じているらしい。

ヌビア人の結婚について話を聞いている間、ツアーグループの女性メンバーは全員手の甲にヘンナをしてもらった。ヘンナは植物から採った染料で、これで皮フに入れ墨のように模様を描く。1週間位で消えてしまう。20LE、400円だった。

JJの家を出て別に家へヌビア料理の夕食を食べに行った。村の路地は狭く、人がやっとすれ違える位の幅しかない。舗装はされていない。下水管を敷設するのか、地面の所々に大きな穴が開いていた。ヤギ小屋があったり、ゴミ捨て場のような納屋もある。

夕食をご馳走になる家に入ると、なぜかカツオだしの匂いがした。広い部屋に花ゴザが敷いてあって、部屋の端に冷蔵庫が2台置いてある。花ゴザの上に車座になって座って食事した。

料理は、油を入れて炊いたライス、鳥の舌スープ、小さいナスのトマトスープ、ジャガイモとインゲンのトマトスープ、鶏の腿焼き、トマトと青菜のサラダ。鳥の舌の正体は脱穀していない米のような穀物なのだが、JJは「鳥の舌スープ」と言って皆をギョッとさせた。スープはどれもとても塩辛かった。

食事の後、小学生低学年くらいの女の子たちが10人位部屋に入ってきて、ヌビア音楽に合わせて踊ってくれた。サルサのような音楽で、サルサのような踊りだ。小さい子なのに、胸部以外の体の線が大人の女性のようで、腰を振りながら踊る姿はどきっとするほど色っぽかった。この子たちも2才の時に割礼したのか。

午後7時頃ヌビア人村を出て、ホテルへ戻った。

ラクダのじゅうたんを買う

旅が始まったばかりのアスワンで大きな買い物をしてしまった。ラクダの毛で織ったじゅうたん。といってもラグと言われるような小さなものだ。


エジプト人が着ているガラベーヤを短くしたブラウスが欲しくて、自由時間にアスワンのスーク(市場)を歩いていた。スークの店はどこもいかにもうさんくさい観光みやげばかり置いていて、ぱっとしない。ホテルに戻ろうとしたら、ポールに会った。いい店がない、と言ったら、路地の角の店に連れて行ってくれ、店の主人に私を引き合わせてくれた。ポールと主人は顔見知りらしい。

その店の入り口は狭く、埃をかぶった小さな置物が所狭しと並んでいて、主人は店の前に置いた椅子に座って煙草を吹かしていた。ポールが行ってしまうと、主人は私を2階に案内した。階段には擦り切れて色あせたじゅうたんが何重にも敷かれている。両側の壁には小さなじゅうたんや織物が下がっている。

2階は1階よりずっと広かった。この店は私がこれまで想像していた、アラビアン・ナイトの世界のエジプトのイメージそのままだった。中央の広間の床にはじゅうたんが何重にもなって敷かれ、広間の周囲に小さな窓のない部屋が並んでいる。どの部屋にもじゅうたんがいくつもの山になって積んであるし、工芸品や出土品のレプリカ、水煙草の器具が所狭しと置かれている。

主人は私を隅の一部屋に連れて行った。そこにはガラベーヤや短いガラベーヤやスカーフ、ネックレスなどがうず高く積んであった。明かりは蛍光灯が1本きり。ちょっと薄暗い感じ。私は警戒した。というのは、出発前に呼んだエジプト本(それは「エジプトが好きだから」なのだけど)に、エジプト人のオヤジは助平でスキがあれば胸を触ったり、キスしようとしたりすると、しつこいほど書いてあったので。しかし、この店の主人は終始紳士だった。ポールの紹介だったからかもしれない。

ここで襟元と袖口に刺繍が施されている短いガラベーヤとスカーフを選んだ。店の主人がスカーフの巻き方を教えてくれた。中東のベトウィンが巻いているやり方だ。そういえばカイロのヴィクトリアホテルで、真っ白な短いガラベーヤにジーンズ、頭に真っ白のスカーフを巻いていたエジプト人男性を見かけたことがあった。肩に垂れたスカーフを払いながら、早足でホテルを出て行く姿が妙にカッコよかった。

このスカーフの巻き方は見た目より簡単だ。店の主人が、こうすれば耳を覆って寒くないし、こう垂らせば首もとに砂が入らない、と教えてくれた。まったくもって砂漠では合理的な巻き方だ。砂漠ではスカーフは男女とも必需品であることがよくわかった。

さて、店にじゅうたんが山積みなので、じゅうたんも欲しくなった。というのはだいぶ前から家の床に敷くじゅうたんを買いたいと思っていたのだ。あまり大きなものは値段も張るし持って帰れないので、小さなものを出してもらった。

店の主人が言うには、どのじゅうたんも家族が織っているとのこと。私はラクダの毛で織ったというじゅうたんを選んだ。これは燃えない、と言って端っこにライターの火をにかざして見せてくれた。私が選んだのは細長いじゅうたんなので、半分に切ってはぎ合わせてもらうことにした。

短いガラベーヤとスカーフ、じゅうたんに575LE(約11,500円)支払った。たぶんだいぶボられたと思う。アスワンは容赦なくボるらしい。しかし、ガラベーヤはみんなに好評だし、スカーフは日本に帰ってから冬中重宝した。じゅうたんは家の部屋に馴染んでいる。いいではないか。

アスワンのスークを夜9時頃散策したら、意外に地元女性客が多いので驚いた。手芸用品屋とおもちゃ屋に女性客が群がっていた。

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