タバコ窯用に別の名前は何ですか
陶磁器 産地・工場
アウグス 15〜16世紀にスペインで作られた西洋・イスラム折衷陶器。
スペインの多くを支配していたイスラム世界から移り住んだ陶工たちがこの地で製陶に励んだのがその始まりで、12世紀頃と言われている。
キリスト教イスパニア人がスペイン全土を取り戻してからも、イスラム式陶器の生産は続けられた。ただし15世紀からすでに見られていた西洋の影響、つまりキリスト教的モチーフの十字文やブドウ文をあしらったデザインが強まり、イスラム教的デザイン、たとえばコーランの一節をあしらったものなどは駆逐された。
イスパノ・モレスクには深い色調の錫釉に鳥や人物を描いたものと葡萄文様などを金属光沢のラスター彩であしらったタイプがあるが、前者の優品は市場ではほと� �ど見られない。
15〜16世紀のラスター彩で紋章のない葡萄文様アルバレロや大皿で3〜400万円くらいになるが、17世紀となるといっきに下がって中ボウルなどは数十万円でも落札されないこともある。新旧よりも質が良くない為で、マヨリカその他の陶器に押されて衰退したのだ。
イングリッシュ・デルフト English delftware
英国で作られたデルフト。つまり錫釉陶器。
オランダの陶工が伝えたものだが、17世紀初期には工場が作られている。主要産地はロンドン(ランベス)、リヴァプール、ブリストルとその近郊。アイルランドやスコットランド製の同様の錫釉陶器もイングリッシュ・デルフトで括っている。
オランダのものより英国産は単純だが大胆かつほのぼのとした図案が多く、マークもほとんど無いなどで区別がつけられる物もあるが、特に初期ではオランダ人陶工も多かったし、オランダの土は品質が良くなかったために本国でも英国産の土を使用していることなどあって判別不可能な品も多い。
更に英国内の産地の見分けともなると特徴の著しい物を除いて困難を極める。ただし英国のどこだろうが、産地が価� ��に影響を及ぼすことはほとんどないから学者はいざ知らず、業者やコレクターは頭を悩ますこともない。
またオランダ製と比較しても、作りが同程度ならば(イングリッシュ・デルフトにはあまり高級品として作られたものはないが)さほど遜色はない。
ウィーン磁器 Vienna porcelain
オーストリアの磁器窯。英語でヴィエナ。
1744年までの製品にマークは無く、様式も初期マイセン風で後世の物とはまるで違う。セーブル風のロココスタイルが導入されるのは1770年頃から。それから19世紀初期までがこの窯の全盛期。
以後は目立った改革は技術的にも美術的にも見られず地味な製品を作り続けていたが1864年に廃窯。
ところがアンティーク市場ではここからがウィーンの全盛時代と言っていい。
通常、たとえばマイセン風のコピーにマイセンの交差剣マークがついていれば偽物となって評価は格段に低い。ところがウィーン風コピーにウィーンのマークが付いていてもさほど評� �は下がらず、出来次第では24cm絵皿に50万円の値が付けられることもある。本物だって草花文なんかだと10万円を切ることもあるのに。
本物が少ないために偽物が市民権を得てしまった、と言っていいだろう。
どうしてもオリジナルでないと気が済まない方は次の点にご注意。
まず美しい婦人の肖像や、恋人たちとか妖精なんて魅力的な題材は避けるべきだろう。オリジナルの新古典主義(ベルリンKPM陶板などに見られる写実的手法)で、甘いムードの絵付けは見た記憶がない。写実的なものは風景か群像、あるいは静物など。
18世紀のロココ調なら恋人たちもあるが、ヴァトーやフラゴナールといったセーブル風で、実在感のあるKPM風ではない。セーブル風も市場で見かけ� �大部分は後絵付けの品、つまりウィーンから白磁やシンプルな装飾で出荷された品に後で他所の窯で装飾を施された品。
元々少しでも装飾されていた品なら、例えば恋人たちの絵付けの下に関係ない葉のラインが盛り上がっていたりするから判るが白磁流出品の場合は難しい。
色調が地味ならオリジナルの可能性が高いが、18世紀のは結構明るいのも多いので決め手にはならない。
確実にオリジナルを狙うなら装飾の単純な、たとえば地色に金彩だけとかブドウ文だけとかの品を選ぶべきだろう。これらはオリジナルでも前述したようにそう高価な物ではないから贋物や後絵付けの可能性は低くなる。
他には良く知られていることだが蜂の巣マーク(横からの図案なので盾のようにも見える)が染付であること。それに数字の印刻があること。絵付けはもちろん金彩も手描き。ついでに高台の釉薬は切ってあり、素地と薬のかかった部分ではっきり色が分かれているのが多い。
まあオリジナル健在の頃に作られた贋物と後絵付けの半贋物を除けば鑑定は難しいものではなく、また今日出回るウィーン・タイプはほとんど19世紀末から量産されたものだからすぐに分かるようになる。あとはあ� ��たの嗜好の問題。
豪華な新興ウィーンにするか地味で小さなオリジナルを選ぶか。
焼き物が好きなら後者、工芸品が好きなら前者をお薦めしておく。
※上は初期ウィーン(デュ・パキエ時代)、下4つは19世紀初期から中期
ウェッジウッド Wedgwood
創始者は英国では伝説的人物ジョサイア・ウェッジウッド。
陶工としても天才的であったが商売においても同様の才能を発揮し、たとえばロシアの女帝エカテリーナからの注文を採算度外視で受け、代わりにロンドンのショールームで完成品をしばらく展示するようなことをやった。
ちなみにショールームという宣伝媒体も彼の発明だ。
アメリカの奴隷解放に協力してフランクリンとも親交を深めたり、孫が進化論のダーウィンだったりするのも人気に拍車をかけた。
ジョサイアのカリスマ性もあって初期ウェッジウッドの製品は高価だが、19世紀中期以降は数も多く、優品や珍しいものでないとあまり評価されない。
特にジャスパーは製造年や出来、そして色によってまるで値段が違うので注意され� ��い。古いジャスパー・ウェア(ストーン・ウェアの一種)のマークは Wedgwood、あるいは Wedgwood & Bentley だけ。ただし1820年以前はマークの無いことが多い。
1860年からはYORやVOPなどの製造年や陶工を表す文字が入る。(必ず入っている訳ではない。特に小物は)England が加えられるのは他の英国窯に比べて新しく1891年のこと。MADE IN ENGLAND は20世紀初期からとなる。
なお、Wedgwood & Coのマークは別会社の模造品。
ジャスパーでないが印判手の傑作マークに VEDGWOOD というのがある。ヴェッジウッド・・・美空ひらり、石原裕太郎の先祖だ。
Wedgwood 印だけのジャスパー贋物も勿論あるが、あまり神経質になることはない。というのも、ジャスパーはすでに述べたように出来不出来で価格差が著しい。ニセモノは本物から型をおこすのでどうしても甘くなる。
ウェッジウッドの中にも営業政策上生産された甘いのはあるが、それらはニセモノ並みの価格しかつかない。だから本物の優品と並品との区別がつけば贋物本物の区別はつかずともあまり問題ないという次第。
ウースター Worcester
創窯は1751年で以後半世紀近くがウースターの全盛期。
ウースターは量産されたので今でも数が多く、軟質磁器としては安く買えることが魅力だ。カップ&ソーサーで染め付けなどなら3万〜6万円で落札できる。紺地の花柄でも十数万円、質を考えればお買い得である。
18世紀ウースターのマークを付けたニセモノは少ないが、フランス・サムソン窯で同じマークの模造品を作っている。しかしこれは硬質磁器で、まるで質感が違うので実物を見れば間違えることはない。
工場は1788年からは国王の工場参観を機にロイヤルの称号を付けるなどしたが低迷が続いていた。
しかし1862年に工場を再編成、実質的な今日のロイヤル・ウースターとして出発、ボーン・チャイナや< /span>硬質磁器製品を開拓して勢いを取り戻す。
ロイヤル・ウースターでは製造年を記したマークを付けており、これの精巧な偽物は今のところ見たことはない。ただし表現は複雑なので(例えば王冠の横に点が3つで1894年という具合)マークの本が必要だ。
なお「グレンジャー・ウースター」とは別の窯が1889年にロイヤル・ウースターに吸収されてこう名乗っていた。だからロイヤル・ウースターの子会社とでも考えればいいのでニセモノではないし、同等の出来であれば本社製品と価格的な差はない。透かし彫りが代表作だが、風景を描いたR・ウースター本社風もある。十数年間は名前を残していたが1902年以降は完全に消えた。
オールド・ノリタケ Nippon
西洋ではないが、日本製の西洋骨董とも言えるような存在なので加えておく。
オールド・ノリタケは欧米でニッポンと呼ばれ、普通第二次大戦前まで含むが、評価が高いのは明治末から大正初期の物。
注文に応じて何でも作った様で、その作風は実に多岐に渡るが盛り上げ技法や、風景を描いた深い色調の絵付けに独自のものがある。
近頃ではマーク・彩色共殆ど見分けのつかない贋物が登場している。おそらく中国製で技術も優れており、特にマークはまったく見分けがつかない。ただ幸いなことにオールド・ノリタケの人気は最近のもの、つまり贋物も新しいのでエナメルが生々しい。特に黒やピンクはいかにも中国風だ。今のところあまり手間暇をかけた品は見てないから、心配ならば、例 えば盛り上げ手のようにこれでもか、と手の込んだ物を選んでおくことだ。
盛り上げは特に多いが、オールド・ノリタケにはマークのない本物も少なくない。それらは残念ながら格段に評価は落ちる。ただし買うのも安いから、自分で楽しむのだったらそんな品を選ぶのも良いかもしれない。
カポ・ディ・モンテ Capo di monte
イタリアの王室専用窯。ナポリ王チャールズ三世が1743年('36年説も)に創窯、後に彼がスペイン王となってマドリッドに移った1759年に閉窯した(マドリッドに移設、ブエン・レティロ窯となる)。
これが正真正銘のカポ・ディ・モンテで、この時代のスタイルはマイセン風が多い。殆どが王室用の品だったから希少性は高く、1978年のオークションでは幅6センチ強の小箱が650万円ほどで落札された。※左の写真
これは特殊な例だが概して極めて高く取り引きされている。
なお、ナポリ市民の群像をレリーフ状に表現した、いわゆるカポ・ディ・モンテ様式というのはこの本家では製作していない。18世紀末頃にナポリやドッキアで開発された。
現在市場に出回っているのは殆どが19世紀中期以降のドッキアやドイツのルドルフスタッド製などだが、インテリアとしてアメリカ人に人気があり、40cmクラスの箱物で40万〜60万円と案外高価だ。ただし人物が人物に見えないような粗悪品では一桁以上価格は下がる。
クラリス・クリフ Clarice Cliff
1920年代から30年代にかけて活躍した英国の陶器デザイナー。英国アール・デコ陶器の代名詞ともいえる。
これからのアンティークはクラリス・クリフ、と言いたいところだが、コレクター垂涎の人気品だと100万円を越えるのもあるのでもはや手が出せない。ただしありふれたものなら20cmの絵皿で数万円から10万円未満というところ。
このあたりの製品で楽しむか、しっかり勉強して相場師として活躍するか。クラリス・クリフをやるならどっちかだろう。中途半端に値上がりなど期待すると怪我の元になる。贋作者にとっても魅力ある作品でもあるから。
グレィ Gray
スタッフォードシャーの陶器窯の一つ。スタートは1912年と若く、取り上げるほどの工場でもないが、スーザン・ベラ・クーパーすなはちスージー・クーパー創立者がデザイン担当していたことで有名になった。
K.P.M.→ベルリン
ケンドラー Kandler
ドイツ・マイセンで最も有名な彫刻家。現在に至るまで彼の原型作品は無数に製作されている。
オリジナルに近い物だと、たとえば20年ほど前に15センチ位のピエロ像が約1500万円で落札。その5年前には体長1mほど、ただし窯傷だらけでおまけに修理もあるオウム(ドレスデンの日本宮殿用に製作された動物シリーズの一つ)が約5千万円で落札されている。これらは特殊な例だが、いずれ現役時(1733〜1775年)の原型作品なら小品でも百万円は超える。他のマイセン作家の作品より数割増しだ。19世紀から20世紀に至っても、彼の原作人形の方が他の作家デザインより人気があるようだ。
ケンドラーに限らず18世紀マイセン人形はコピーが数多くの窯で作られてお� �、それらは18世紀後期から19世紀初期の古い手が多いので見た目で区別するのは難しい。また18世紀のは19世紀マイセンのような細やかさがないので技術で見分けるのも困難だ。
少ない拠り所の一つは大きさで、コピーはオリジナルの完成品から型を取ったものが多く、磁器は焼成すると縮むので本物より小さくなってしまう。同じ大きさだからと安心は出来ないが、小さければコピーだとはいえる。もっともチェルシーのコピーなどはオリジナル・マイセンよりも高く落札されたりするが。
※写真は同じく日本宮殿用。窯傷だらけだが1963年のオークションで13,500ドルで落札された。ちなみに同じ年、モジリアニが22,000ドルで落札されている。
ゴーサ Gotha
< /span>ドイツのThuringia地方、Gothaに1757年以後に創窯。
始めは民間経営であったが、1802年にGothaの統治者Prince Augustus (マイセンのアウグスト強王の眷属なのだろうか?)に工場は移譲された。
磁器窯で、公用向けに極めて優れた品質の磁器を製造した。主にクリーム地にエナメル彩色した食器や人形・胸像、それに人物像を描いたメダルなど。ただし19世紀半ばまでの生産量は非常に少ない。
1892年からファイアンス(陶器)の生産を始め、間もなくドイツにも流行り始めたアールヌーボー様式を取り入れた。
コペンハーゲン Copenhagen
デンマークの窯。創窯年は資料によって実にまちまちで、それは前身ともいえる窯があり、実験的に磁器の製造を初めていたことによるらしい。
ともあれ一応の創窯は1759年頃。王立ダンスク磁器工房(現在のロイヤル・コペンハーゲン)となったのは1779年のこと。フローラ・ダニカを作り上げた1800年過ぎ頃までが全盛期で、その後長い低迷期を迎える。
20世紀も近くなって古くからの装飾パターン、ブルー・フルーテッドをリニューアル、縁取りにもブルーを入れたハーフレースや透かし彫りのフルレースを発表するなどして復興を遂げた。
コレクタブル・アイテムのクリスマス・プレートはまだアンティークではないが、いずれはそうなるだろう。ただし少なくと も孫の代までは待つ必要がある。
コープランド Copeland
1847年にスポード窯の共同経営者だったコープランドが建ち上げた、というか、スポード亡き後の工場をそのまま引き継いでいたのだが、一応単独の名前を使用したのがこの年。
'51年のロンドン万博に代表作パリアン・ウェアを出品して一躍名を馳せた。ところがせっかく名前が知れたのに、よほどスポード家に遠慮があったのか再び名をコープランド−スポードとする。その後も変遷があって、現在ではまたスポード単独の名称となっている。
コールポート Coalport
1796年創窯の硬質磁器窯。早くからコウリーやスウォンジーといった中堅名門どころを次々と買収、初期作風はそれらの影響が大きく、19世紀中頃からはセーブル写しなど作っている。
作品の質は高いがオリジナリティに乏しかった故に、昔はあまり評価されていなかった。近頃では優れたセーブルが市場に出なくなった為に代役の地位をミントンと共に確保している。
サムソン Samson
フランスの陶磁窯でマイセンや、チェルシーを始めとした英国磁器の模倣品を量産した。Sにバッテンを加えたオリジナル・マークを付けているので普通は間違えないが、後世にSマークをフッ素やグラインダーで消して書き直したものがある。
英国磁器タイプには同じマークを使用しているのもあるが、本物は軟質磁器だからオリジナルを見ていれば間違う心配はない。マイセン・モドキはマークが不自然か顔料が違うことで判別できる。
他にデルフトの紛い物もこなしているが、こちらは磁器よりもわかり易い。ただ、専門家が間違えて騒ぎになったこともあるそうだ。
実物を見てないので想像だが、デルフトなど錫釉陶器の保存の良い超一級品はまるで新品のように見える。そんなシロモノと間違え� ��のだろう。まあ並みのコレクターなら却って犯さないミスだ。
ジッツェンドルフ陶磁器工場
1850年にウィルヘム・リーブマンが設立した小さな磁器工場がその起源。工場は1884年には現在でも人気を誇るレースを使った人形の生産を始めた。同時代から1896年まではマイセンスタイルの装飾的な磁器や人形の生産で工場は発展した。ただしレース・ドールを除いてマイセン亜流を免れなかったようである。工場が株式会社となった1902年からはオリジナルのデザインを発展させた。1958年に準国有化、1972年に完全国有化されて東ドイツ経済に貢献したが1990ねんのドイツ統一後に民営化された。
マイセンレース人形はレースを服の一部に使用するのが普通だがジッツェン� ��ルフのそれは、たとえばスカート全部だったりボリュームが多いのが特徴。
他の人情では貴族や中産階級の生活を描いたものが多く表現が具体的。またマイセンよりも色調は強く華やかなのが一般的である。
シャンティリー Chantilly
フランス、シャンティリーの地に1725年創窯。陶器と軟質磁器の窯であるがいずれも極めて質は高い。
創立から1750年頃までは伊万里様式が中心で、40年頃からは優れた柿衛門スタイルを生み出している。
こんな話がある。クリスティが初めて日本でオークションをやった時、同窯の柿衛門写しというのを持ってきた。とある伊万里の大家がそれを見て、「これは柿衛門だよ。西洋人だから判らんのだ」と言った。ところがオークションの後、付いていた金具を外してみるとシャンティリーのラッパのマーク(ホルン型)があった。
ずいぶん前の陶説という雑誌に出ていた話で、いくらなんでも伊万里の大家、冷静に見れば判ると思うのだが、おそらく「西洋の日本写しなぞ子供だまし」との先� ��観が眼を曇らせたのだろう。
ちなみにこのシャンティイの柿衛門写しの写しもある。おそらく19世紀末の製作で、肌が白すぎて長屋の大家でも判るくらいの程度だが、ゆめゆめラッパのマークに安心しないことである。安心出来るのはセイロガンだけだ。
シャンティリーでは18世紀中期からマイセンやセーブルタイプも作った。もっともセーブル風でも地味な方のタイプではあるが。陶器の方も前半は伊万里風であるが後半になるとフレンチ・ファイアンス風が多い。
フランス陶磁窯のご多分に漏れず革命のあおりを受けて1800年に閉窯した。
スージー・クーパー Susie Cooper
元グレィのデザイナー、スーザン・ベラ・クーパーが建ち上げた。グレィはスタッフォードシャーにある多くの窯の一つで、本来ならドレスデンやリモージュ同様「スタッフォードシャー」と窯群の名称で括られる程度の工場だがスーザンのお陰で名を馳せた。
1968年発行の英国陶磁百科事典にはグレィのことが数行、スージー・クーパーについては一言の解説もない。1981年のマークの本にも出ておらず、いかに最近の興隆かが伺える。しかしクラリス・クリフ同様、投機対象としてはもはや古い。
スタッフォードシャー Staffordshire
英国最大の窯業の地。日本の瀬戸や有田といった所。
16世紀後半に見られるスリップ・ウエアが初期の代表作で、18世紀から19世紀にかけてが最盛期となる。
この時代に作られた陶器と塩釉ストーン・ウエアは有名だが、18世紀後期までは何処の窯もマークを使っていないので特定は難しい。
18世紀後期に現れたのはウェッジウッド、スポード、19世紀初期にはミントンがこの地から名乗りを挙げている。
スポード Spode
ヨサイア・スポードが1770年スタッフォードシャーに陶器工場を創立。
息子が引き継いで1800年頃に磁器を導入した。1813年からコープランドが経営に参加。→コープランド
セーブル Sevres
セーブルはフランスのヴェルサイユとパリの中間の地。だがその歴史は1738年のヴァンサンヌに溯る。
シャンティリーから逃げ出した陶工を招いて研究を始めたのがきっかけで、40年にヴァンサンヌに工場が作られ、45年には軟質磁器が完成された。
ごく初期のはモノクロに近いような暗いトーンで花柄や神話などが描かれた。それからマイセン風のものが現れるが、50年頃には純ロココ調白磁人形が登場、壷や食器類にも後のセーブルの雰囲気を覗かせるタイプが見られる。有名なLLマークが定着したのもこの頃だ。
53年からはLとLの間にアルファベットを入れて年代を表すようになる。ちなみに53年がAでZは77年。翌78年からはダブルでAA、93年のPPで終わる 。
詳しくはマークの本をご覧いただきたいが、セーブルのLLマークは数ある西洋アンティークの中でウィーンと共に最も疑うべき印であるのをお忘れなく。18世紀のはLLとアルファベット以外にペインターや原型師などのマークがあるのが普通。
民間経営だった工場が潰れかかったところへ救いの手を差し伸べたのがルイ15世の愛妾、マダム・ポンパドゥールで1753年のこと。(セーブルのスタートをこの53年にするか工場がセーブルに移った56年にするか完全に王立となった59年にするか、迷うところだが地名なのだから56年が相応しいだろう)
豪華絢爛なセーブル製品はマイセンをも凌ぎ、黄金時代を迎えたが64年にポンパドゥール夫人が亡くなってからは華やかさは次第に薄 れ、ロココからルネッサンスに戻ったような絵柄が見受けられるようになる。
これは衰退というよりも、事実上のオーナーがルイ15世の次の愛妾デュ・バリー夫人に代わったため。彼女の趣味に変えただけである。ところがルイ15世も亡くなり、16世と共に王妃マリー・アントワネットが登場して本当の凋落が始まる。何しろ重なる散財で工場に廻す金がなかった。そして革命。
アンティーク・レースを研究していた姉に聞いたことがあるが、フランスのレースは革命以前と後でまるで価格が違うのだそうだ。腕が落ちたのかというと、それもあるがなにより希少価値だという。革命で非常に多くのレースが貴族の象徴として焼かれたというのだ。軽くて壊れない、つまり逃亡する際に持ち運びやすいレースでさえそのよ うな運命にあったのだから、重くて壊れ易くてしかも華美なことで人目に付きやすい、つまり破壊の対象になり易いセーブル磁器の運命は察してあまりある。
現存するセーブルの優品は稀である。
良く見るジュエルで装飾された貴婦人の描かれたカップや皿などは99,99・・・パーセント偽物。ただし悲観することはない。ウィーンと同じように、それはそれでアンティークとして認められている。
欧米の一流オークションに出品しても歓迎される。ただカタログにSevreの後に「style」と付くだけの話。
※上のピンク色のマグはヴァンサンヌ時代のもの。
ダービー Derby
1745年頃には実験的に作品が作られていたらしいが創窯は1750年。18世紀後期から19世紀初期にかけての草花絵付けはベルリンのような堅さの中にも躍動感があって見ごたえがある。
チェルシーを買収したりと一時期は繁盛したが1848年に閉窯。陶工達は分かれて小さな工場でダービーの型など使ったコピーで糊口を凌いでいた。
1876年に興されたクラウン・ダービーは、アラスカは買収するわ大陸横断鉄道は完成させるわと景気の良いアメリカの巨大市場を狙ったもので、本家筋とは関係ない。90年に王室御用達の任用を得てロイヤル・クラウン・ダービーとなったが、やはり老舗の暖簾が欲しかったのか20世紀になってからかろうじて存続していた本家筋の工場を買収合併した。
貴族の子孫と結婚して血筋を誇るようなもので、会社の思惑とは別に、英国ではダービーとロイヤル・クラウン・ダービーを別物とみなす識者が多い。まあ我々日本人の選択は自由だ。
有名な伊万里パターンは1755年にチェルシーで作られ、後にダービーに移ったらしいがチェルシーのは見たことがない。
ダービーでも初期と近年ではずいぶん様子が違う。近頃の伊万里パターンなど見られたものでない、と言いたい所だがこの図案の場合は逆で、少なくとも我々日本人には初期伊万里パターンはくどいように思える。
チェルシー Chelsea
1745年に興された、 はっきり確認されている中では英国最古、そして同世紀では英国最高の磁器窯といわれる。その割にはマイセン人形そのものから型取りしていたりとセコイこともやっている。もちろん初期の試行錯誤の段階だが。
1770年にダービーに買収されてチェルシー・ダービーとして続いたが1784年にチェルシーの名は消えた。
有名な金色アンカー・マークは1756年〜69年の間に使用されたが小さな人形などに同マークの贋物は英国では無数と言っていいくらいに見かける。ただしほとんどはお土産品。生地は硬いが型は甘く金彩はテカテカで判別は容易。本物は軟質磁器で生地は白く滑らかである。
以前は優品を除いてさほど珍しいものではなかったが、近頃は市場から姿を消しつつある。
� �ィファニー Tiffany
自社で焼いているのでなく、名前だけ貸しているのかデザインもしているのか、色々な窯でティファニーの名前を入れている。
ティファニー・ダービーくらいならわかるが、ティファニー・ブーツ(印判手で有名な窯)ではあまりイメージ・アップにもならないと思うが良くわからない。近年ではノリタケ・ティファニーなんてのもある。いずれティファニーの名前が入っているからぐっと評価が上がる、ということはない。窯元の名前の方が重要である。
デルフト Delft
オランダにイタリアからマヨリカの製法が伝わったのは16世紀初頭。しばらくダッチ・マヨリカと呼ばれるマヨリカモドキであったが、17世紀初頭に中国染付風タイプが作られるようになった。
同時期にデルフトが窯業の町として台頭し始め、やがて全盛期を迎える。そのためオランダの錫釉陶器すべてがデルフトと呼ばれるようになった。
デルフトが中国写しを始めたのは当時人気を博していた中国磁器が高価で、その代用品としての需要による。
日産のフェアレディZというクルマは「チープ・ポルシェ」なんて呼ばれていた。この伝でいけばデルフトはさしずめ「貧乏人のチャイナ」。それでもフェアレディZですら我々には高嶺の花だったように庶民のものだった訳ではな� �そうだ。
デルフトは17世紀中頃に明朝の崩壊など中国混乱期を迎えて全盛期を迎えるのだが、18世紀後半に景徳鎮で大量生産が始めると零落、末になってフランス軍に町を占領されて終焉を迎えた。
19世紀になって復活し今日に至るが、復興デルフトに優れたものは少なく、アンティーク市場でもあまり評価されていない。
最も優れているとされるのは1640年から1740年にかけてのものだが、18世紀後期の物でも絵付けはむしろ細かくそう悪くないと思う。
新しいデルフトと古いものの見分けはおおむね易しい。というのも新しいので出来が良いものが少ないせいだが、もちろん精巧なものもある。ただし錫釉の新しさは隠しようがなく、高く売りつけるために表面を砂で擦ったりして古びを出す� ��どする。この場合はルーペで見れば判明する。
なお、デルフトというと白地に青絵付けのみと思われがちだが、日本の錦手を模した派手な色合いの物など他のタイプも少なくない。
ドックス Dux
ロイヤル・ドックス。1860年ボヘミア、ドックスに創窯。デュックスと発音するのが近いのだろうが、日本ではドックスで通っている。
アール・ヌーボーの女性像あるいは女性が絡んだ壷・コンポートなどが人気で、2、30センチ位の絡みモノで数十万円からムードが良いと50万を越えるのもある。ただし日本では欧米より安く落札されることが多い。
同じような製品は他でも作られているが、無銘だと半額近くになってしまう。
アンフォラ窯は出来次第で、優品ならドックスとあまり遜色ない。
ドックスのマークをそのまま偽造したニセモノにはお目にかかったことはないが、同窯でも復刻版があり、これも半額以下なので要注意。ただし意識的にか、色合いを変えて いるのですぐわかる。
ドッキア Doccia
イタリアの磁器窯。1736年前後にカルロ・ジノリが創窯した。そう、現在のリチャード・ジノリ窯のご先祖さまである。
ごく初期の物はほとんど王室専用、46年頃から一般用も作ったというが、18世紀後期に至るまでマークが無いので見分けるのは出来次第。とはいえ王室用と言えるほどのものを市場でみたことはない。
18世紀末からいわゆるカポディモンテ風の製品を作っているが、おそらく先に同タイプの製品を出していたナポリ窯と同じNにクラウンのマークを入れているので紛らわしい。ついでに言えば、このドッキアのナポリ風を19世紀末頃から真似した工場が多数あって、カポディモンテ風製品の素性を一層訳のわからないものに仕上げた。
18世紀もので普通に市場で見かけるのはフレンチ・ファイアンス風デザインが多い。
ドルトン Doulton
1815年頃創窯。ストーン・ウェアと陶器の窯。1901年からローヤル・ドルトンとなった。
昔ヴィクトリア&アルバート博物館へ始めて訪れたとき、便器がロイヤル・ドルトン製だったので驚いたことがある。さすがに英国の博物館は違う、チューリップでさえブランドものだと。
なんのことはない、ドルトンでは一般用衛生陶器も製造していたのだが。
ドルトンに限らず一流メーカーが衛生陶器や普及品を製造する例は少なくないが、普通は「ウェッジウッド・ホーム」や「ロイヤル・コペンハーゲン モダン・ライン」の様にカジュアル・ラインとして別枠にするか子会社に託す場合が多い。
ちなみにマイセンでも19世紀には衛生陶器を、僅かではあるが作っていた。
ドレスデン Dresden
ドイツの商業地ドレスデンはマイセンと10マイル以上も離れた街だが、サクソーニ地方の首都だったことやマイセンの仕上げ工場があったりで、英米で昔はマイセンのことをドレスデン・チャイナと呼んでいた。
その為に混同されることがあるが、現在アンティーク界で言うドレスデンとは19世紀にドレスデンの地に次々と創窯された工場群を総称する。有田焼きとか景徳鎮の焼きもの、と言った感覚でそれなりに評価されてはいる。
製品はマイセン・タイプが主流。多くはマークが違うし、似ているのも焼き・絵付けとも甘くて間違うこともないが、Helena Wolfsohn などはオーガスタス・レックスのARマークをそのまま使っているので初心者が興奮して「初期マイセンを手に入れたぞ!」となる。艶の無いのが古い証だと思うようだが、マイセン製品は初期でも焼きは堅くまさしくポーセリン(タカラ貝)、ドレスデンとは艶が違う。
バウ Bow
1744年創窯とされるが確認されているのは'47年のため、英国最初の磁器窯の栄誉をチェルシー('45。一説に'43)と競っている。
両窯とも無くなっているが、現在まで続いていたら元祖・本家争いで一悶着あっただろう。
もっとも他にボーン・チャイナを創製したり転写技術を初めて商品化したりとなかなかの業績を残しており、元祖でなくとも充分に評価されてしかるべきだろう。1776年、ダービーに資材を移して閉窯。
市場で見かけるのは染付け小物が多い。
パリ Paris
王立だったセーブルでは磁器の製造と彩色に関する独占権が認められていた。つまりフランスではセーブル以外に磁器や豪華な陶器は作ることが出来なかったのだ。
それが1780年に廃止され、それまで僅かだったパリの工場が林立するようになる。
パリとは単独の窯を言うのでなく、それらの工場を総称する。英国・スタッフォードシャーやドイツ・ドレスデンと同じだ。
多くがセーブル亜流、粗悪品だが、18世紀末から19世紀初めにかけて、ごく一部で製造された中には絵付けの非常に優れた物があり、正確なデッサン、緻密な表現力においてはセーブル、ウィーンをしのいでいる。
またナポレオン時� �のネオ・クラシックタイプも硬質で日本人向きではないが出来は良い。
※写真はセーブルの白磁にパリで絵付けがなされたソリテール・トレィ。
パリッシー Palissy
1510年フランスに誕生したベルナール・パリッシーの前半生はまさにシンデレラ物語り。陶器の研究のために貧乏のどん底にあったときに貴族にその作品が認められ、やがて王の擁護の元に窯を持つ。
作風はトカゲ、ヘビ、カエルやカタツムリなど女性の嫌いそうなものを選んで皿や壷にあしらったような物が有名。なにかコンプレックスでもあったのではないかと疑いたくなるが、これはパリッシーの自然指向による。
彼には理想の庭園の夢があり、それは普遍的な美しさを持ち、かつ出来るだけリアリティに富んだ内容を備えていなければならなかった。
彼は化石や鉱物の研究もしており、そのメカニズムについても当時としてはかなり正確に捉えていた。そのため創世記との矛盾もみられ教会に睨ま� ��たりするが、それはさておき、化石や鉱物の持つ普遍性と自然の美しさを彼の庭園で融和させようとし、その材料に陶器を使おうとしたのだ。
ただし当時の陶芸材料で生きているように表現するのはなかなか難しい。パリッシー自身は「ぼくの陶芸工房にある犬の陶器を見て、幾匹もの生きた犬たちが、本物の犬だと思い込んで夢中に吠えかかる・・・」と書いているが、まあウブな犬たちであったのだろう。
毛のある哺乳類や鳥類にくらべて爬虫類や両生類は易しい。なんとなればそのまま型取りすることが出来るからである。また陶器に掛けるガラス状の釉薬は両生類や魚類のヌメリをうまく表現できた。何もグロテスクな生き物を選んだ訳でなく、(彼等にしたらこんな言われかたは心外だろうが)リアリズムを求めた� ��そのような生き物が主体になったということなのだ。
もちろん他に人物や花、フルーツなどの題材も少なくないが、それらも妙に生々しく、日本人の趣味には合わないようで、19世紀に量産されたコピーですら国内ではあまり見ない。
製陶の時期は1542年から20年間。パリッシー工房作品とはっきりわかるものならものすご−く高価というか、断片でも博物館が泣いて喜ぶ。
プロテスタントだった彼はユグノー戦争による改宗を拒んで80歳の時にバスチーユで獄死したが、充実した人生だったといえるだろう。欧米の辞書には陶工・錬金術師などと書かれているが、著書を読むと博物学者の肩書きが相応しいように思う。
ファイアンス Faience
錫釉を掛けた陶器のこと。マヨリ� �、デルフトと同じタイプの陶器だが、フランス、ドイツ及び北欧で製作されたのはこう呼ばれる。すなはちフレンチ・ファイアンス、ジャーマン・ファイアンスなど。語源は錫釉陶器のマヨリカがイタリアのファェンツァ(Faenza)経由でフランスにもたらされたことから、フランス産もこう呼ばれるようになった。
マヨリカの招来は14世紀末くらいのことらしいが、フランス独自のスタイルになるのは16世紀になってから。花柄を全面に散らしたデザインが主。もちろんマヨリカやデルフト風もある。
草花のなどはマヨリカやデルフトよりよほど日本人好みかと思うが、あまり姿を見ない。
フォルクシュテット Volkstedt
1760年創窯とドイツの中でも歴史は古く、そこそこに質も良い。ただマークがいけなかった。
交差鍬・・・そう、マイセンの交差剣と紛らわしいのだ。先がUの字になっているので今では見違える骨董屋もコレクターもいないだろうが、昔はマイセンとしてデパートの美術品売り場に鎮座しているのも珍しくなかった。
剣と鍬、すなはち騎士と農民の違いか焼きが甘く、色調に華やかさがなく、べた塗りした個所は粉っぽくなることが多いなどからマークを確認しなくてもたいがい分かる。
フッチェンロイター Hutschenreuther
カルル・フッチェンロイターの父親は陶磁器の絵付け工場を経営し、彼にも元々絵付けの心得はあった。しかし志しは磁器の製造。バイエルン� �方で白磁の原料となるカオリンを発見し、陶磁器を原料から作り出すべく製造認可を得ようとしたがバイエルンにはニュルンベルク王立釜が創業の存在を認めようとはしなかった。それでも1814年に暫定的に開窯、バイエルン王マクシミリアン1世に開窯の意思を情熱を持って懇請し、ようやく政府に正式認可されたのは8年後の1822年のことだった。
フッチェンロイターは20世紀の早めには次々と工場を併合することによって急速に成長した。1917年には芸術部門設立。創造性の高い製品を生み出していった。フッチェンロイター磁器工場は2000年にウォーターフォードウェッジウッドグループの傘下に入ったが「ライオンマーク」はカルル以来の
「人間の手に勝る技術・機械は存在しない」という信念の� �ンボルとして今日まで続いている。
ヘヒスト Hochst
ドイツの会社でヘキストというのがあるが、同じスペルなんだろうか?一応日本語の陶磁器辞典に因ったのだが。
覚えたての時はホチェストと読んでいた。幸い会話の端にも上らなかったので恥を掻かずに済んだが。
とあれヘヒスト、1746年から1796年の半世紀のみの製陶。優れた製品を出していた割には短い寿命だった。
特に優れていたのは人形で、マイセンはどこかバロックの匂いのするロココだが、ヘヒストのは純ロココ、ブーシェやフラゴナール風、表現が柔らかく優美である。
残念ながら市場に出るのは殆どが子供人形で、フラゴナール風大人のは欧米でも滅多に見られない。子供なら同時代のマイセンと大差ない価格だが、フラゴナール風の恋人たちなどはコレクター� �奪い合いになるので幾らになることやら。
ヘレンド Herend
ヨーロッパの小国ハンガリーで生まれたヘレンドは、マイセンを始めとする巨大工場が軒並み力を落す中の1840年頃に生まれた。
デザインは専ら東洋陶磁、それに例によってマイセン、セーブル、ウィーンなどを手本としている。しかしヘレンドが偉かったのはそれらの安価コピーでなく、18世紀の品質を求めたところ。
やや地味ながらもしっかりした作りは本家元祖たちの製品に飽き足らなさを感じていたヨーロッパ上流階層に支持され、51年のロンドン博ではヴィクトリア女王の注文も受けている(現在も続くヴィクトリア・パターンだが、昔のよりは色調を弱めてクドさを除いている)。
20年くらい前は「下手なマイセン買うよりもヘレンドにしなさいよ」と� ��にも薦めていたが、昨今ではアンティークは品薄で下手なマイセンより高くなっているのが難である。
ベリーク Bellek
1863年アイルランドに創窯。生地が薄く、真珠の様な光沢を持った独自の磁器が有名。
壊れ易いので少しぐらいの欠けやヒビは大きな減点対象とならないが、いずれ日本ではあまり人気がない。
ベルリン K.P.M. Berlin K.P.M.
1751年ドイツ・ベルリンに創窯。一旦閉鎖されるが間もなく再開。(別の窯ともされるが、少なくとも職人は引き継いでいるようだ)
1763年から王立となる。従って実際はこの時からベルリンK.P.M.になるのだが、通常KPMの文字がマークに入れられ始めた1832年から第一次大戦までをKPMで呼んでいる。
ちなみにK.P.M.とは Konigliche Porzellan Manufactur(Royal Porcelain Manufacture) の略ですなはち王立磁器工場。だからマイセンも実はマイセンK.P.M.であり、実際ごく初期には交差剣に加えてKPMと染付で入れられているのもある。
王杓マークの代わりに「丸にクロス」マークが使われたのは第一次大戦後で、質は概してやや落ちる。KPMとだけプリントで記されてのは別窯。
初期作品はマイセン風が多く、1770年頃から建物など描かれた独自の緻密で硬派な作風が見られる。(これも元はマイセン、ウィーンだがKPMのがもっとも細かく写実的)
陶板が焼かれ始めたのは1830年頃からだが、初期のは宗教がらみの題材が殆ど。新古典主義の人物などが描かれたのは1880年以後が多い。
初期のは偽� �は少ないが1880年以降の陶板は多く、KPMで焼かれた板に他の窯で絵付けした例もあって悩まされる。
この場合は見分けるのが至難の技だが単純に考えればよろしい。
陶板は絵付けがすべて。デッサンが正確でないのや色調に破綻があるのは、よしんば本物であっても評価されない。逆に驚く程見事な絵付けならばニセモノだって価値はある−(そんなシロモノは見たことがないが)。それが工芸品である陶板と絵画の違いだ。
まあ具体的なことを言えば、転写のラインが分かるようなら別窯。KPMでも大まかな輪郭は転写で下描きしたと思うのだが、よほど薄く載せたのか上手に絵具で消したのかルーぺで見てもまったくわからない。それから艶。高温で焼き付けされたのは深い艶を持つ。
板本体の見分� ��は、陶板を裏返して素地に貝殻のような密度があれば信用出来るし、石膏のような質感であれば低温で歪まないように焼かれたことがわかる。
本物は厚く重量感があり、板に布地の跡のような目が残っていることも多い。
マイセン Meissen
西洋で初めて完全な磁器を作った窯。
工場は1710年にドイツ・マイセンの地に創立された・・・歴史的なことはいずれ書くとしてここではマイセンの買い方。
実はマイセンの贋物は少ない。本物とそっくりな、という意味であるが。
難しいのは18世紀の人形と同世紀末からのドットなど付いた品くらいで他は慣れれば容易にわかる。ただし生地は本物でも他所の窯で絵付けした製品はかなり多く、必ずしもキャンセレーション・マークが入っていないので注意を要する。
18世紀末モノを除いて草花の絵付けは達筆で流れるよう、ぎごちないのは外絵付けを疑った方がよい。もっともこのような外絵付け、特に日本ではあまり評価が下がることもないので(分ってないようだ)さほど� ��にする必要も無いかも知れない。それに18世紀の外絵付け師(ハウスマーレライ)の手になるものなどはオリジナルより高かったりもする。
生地までの完全なニセモノを見分けるのに大切なのは艶で、マイセンでは高温(1460度)で焼き上げるので独自の艶がある。人形も同様だが、エナメル彩色した部分は本焼きの後で低温で焼き付けるので、色によってはそこまでの艶はなくなる場合も多い。ただ全体的に艶を失うことはない。
人形では修理のあるなしも見なければならないが、葉や花など小さい部分は難しい。ただし腕や首などがつなげてあるなら価値も大幅に下がるが、葉や花それにバスケットなどの修理についてはあまりマイナス点にならないので神経質になることもない。草花のついたアンティー ク人形で完全な品はむしろ不自然なくらいだ。
腕や首などの修理は、部分的なのは容易にわかる。というのも磁器の色を塗料で再現するのは緑や茶では易しいが、肌色や白色では難しく、周囲と色調や艶が調和しないからだ。そこで修理屋はあたり一面色を塗りなおす。
これを見分けるのは残念ながら経験を積んでいただくしかない。ただし古い修理は変色するので分り易い。特に白色部分が黄色っぽく変色しているのはほぼ間違いない。
金彩も修理が難しい。塗装では粒子が粗く、元の滑らかな金にするには焼き直すしかないが、古い金とは調和しないので全部やり直す必要がある。細かい模様などは余程の名品でもなければやらない。
いずれ近頃は修復技術も進歩して肉眼では判断が難しいのも少なく� ��い。ナイフの刃を表面に当てて滑らせる方法もあるが、オークション会場や店でやると顰蹙を買うので爪を磨いて代用することだ。これでも修理が塗料なら大体わかる。ただし樹脂コーティングの場合はやはりナイフでないと難しい。他に紫外線ランプを当てる方法もあるが、まだあまり数を試してないので芳しい結果を得られていない。ある種の接着剤には白く反応するものの、塗装はダメだしヒビ割れも平面ならともかく立体部分は難しい。ワット数が足らないのかとも思うので、いずれ光量アップしてご報告する。しかしあまり期待は出来ないように思う。
交差剣の染付マークは濃淡、太い細い、大きい小さい等色々あるが、基本的な形に変化はない。剣の柄がUの字になっていたり、柄の片方がなかったりと形がおかしいの は全部他の窯と思っていいだろう。
18世紀モノではマークが消えかかっているのも僅かにはあるが、19世紀ではまずない。はっきりしている。加えておくと「マークがぼんやりしているがこれは18世紀マイセンだ」という場合、多くは英国で18世紀中にコピーされた品で、本物の「ぼんやり品」というのは例外的だ。
剣マークに染め付けの数字やアルファベットの加えられているのも疑わしい。TとSは完全にアウト。オリジナルに見られる付加マークは・(ドット)それに数は少ないがTとUのローマ数字と*印。これら以外ならまず疑った方がいいが、ドットや*の偽物も数多く、しかも英国製などは質も悪くないのでこれも安心は出来ない。特に同時代のマイセンは質の悪いのも多いので見分けは難しいが、英国製も数多く出回っているので良く見ておくことだ。概して英国のや外絵付けは丁寧でも下手でギゴチ無かったりする。対してマイセンのは乱雑でも線が手馴れている。
本物では他にアルファベットのKPMやKHCWなどもあるが、これらは18世紀でも初期の特に優品で市場で見かけることはまずない。 オニオン・パターン 製品によく見られるMEISSENとアルファベットで入っているのも他の窯。 交差剣マークに刻み線の入れられているものについては陶磁器「装飾・素材」の キャンセレーション・マークの項を参照されたい。
※上4つはマイセン・マーク、下はマイセン以外の窯
マジョリカ Majolica
マヨリカの英語訳として解釈されており、今や一般的になっているので間違いとも言えないが、本来はミントンが1850年に開発した陶器の商標登録名。
初期にはイタリア・マヨリカ風であったが、まもなく自然を造形と釉薬で表現したフランスのパリッシーに近い作風となった。釉薬は、東洋で言えば艶のある三彩風といったところか。
このミントン・マジョリカ、日本ではまるで人気がなく、ロンドンなら20万円以上の値がつくナッツ・ディッシュが東京のオークションで6万円で落札されていた。
マーチン兄弟 Martin brothers
苦虫を噛み潰したような男、あるいは皮肉な笑みを浮かべる鳥などをジャグやタバコ入れに彫塑表現した作風で知られる。製作時期は1873年から1914年までで、塩釉のストーン・ウェアにサインと日時が必ず入れられている。
一時期サザビーあたりが音頭をとって積極的に売り出していたが、さすがの欧米コレクターにもグロテスク過ぎたのか数が不足していたのか近頃はあまり見ない。
昔は20cmくらいの鳥の蓋物でも40〜50万円、珍しいタイプだと200万円近くになった。落札価格の最高記録は1千万円近くになるが、今後そのレコードが破られる可能性は殆どない。
マヨリカ Maiolica
スペインのイスパノ・モレスクがマヨルカ島を経由してイタリアに輸入されていたことからイタリアでは錫釉陶器をマヨリカと呼んでいた。日本で陶磁器を瀬戸物と呼ぶ感覚だろう。
やがてこれが転じてイタリアで作られた錫釉陶器をマヨリカと称するようになった。
名称のいわれからイスパノ・モレスクから生まれたように思われがちだが、スペインよりもイスラム本家からの影響が強いようで、いわばイスラム陶器が父、イスパノ・モレスクは兄というところだろう。
13世紀末から14世紀には焼かれ始めていたようだがマヨリカ独自の色絵となるのは15世紀から。イタリア・ルネッサンスが盛期を迎える15世紀末から16世紀にはマヨリカも全盛期を迎える。有名な窯場は� �ァエンツア、カステル・デュランテ、ウルビノなど。
明るく力強い色調は数百年を経た現在でも衰えることはない。というか、作られた当時は相当に生々しかったのではないか。
だからか18世紀以降では色合いを押さえていることが多い。
このマヨリカは色調が落ち着いていて良い、なんて見える品はむしろ新しさを疑うのがいいだろう。
オークションでは30センチ位のウルビノ絵皿で数百万円というところ。17〜18世紀ものは五分の一とか十分の一。19世紀なら百分の一。もっとも古い優品が少なくなった為か、19世紀ものでも忠実に16世紀を再現したような品なら数十万円になることもある。
ミントン Minton
コウリーやスポードで修行したトーマス・ミントンが1796年に興した。最初の頃はあまりパッとしなかったが1820年頃から製作を始めたセーブル風のが受けて名を上げた。
当時18世紀セーブルは革命で多くが失われていたから、ミントンのコピーは意味があるし、人気を博したのも当然といえる。
ミントン・マジョリカは欧米では大変人気があり、絵付けの無いオイスター皿(エスカルゴ皿よりも大きなクボミが幾つかある皿)で5〜10万円はする。日本では1万円でも買手はつかないだろう。
日本で見つけて英国に持っていけばいい小遣い稼ぎになると思って探したが、マジョリカの項であげたナッツ皿を除いて見たことは無い。
メディチ磁器 Medici porcelain
フィレンツェのフランチェスコ・マリア大公が設立、ボボリ庭園で1575年から'83まで焼かれていた軟質磁器。(1581〜86年説も)
マヨリカの陶工が焼いたといわれるが、一点の例外を除いて染付けで、マヨリカの派手さはない。
現存するのは世界に59点で、有名どころでは最も数少ない西洋陶磁器の一つ。市場に出ることがあっても大富豪や博物館にしか入札資格はない。
一応見た感じを記しておくと、釉薬は比較的厚くて気泡が多い。その為コバルトは少し滲んだように見える。殆どの作品に教会のドーム・マーク、その下にFと入れられている。
ノミの市で見つければあなたも億万長者。確率は裏庭を掘って石油を掘り当てるより低いが。
リモージュ Limoges
フランスのリモージュ地方に点在する工場群。
リモージュは日本の有田や瀬戸などと同じ窯業地名で、1771年に最初の磁器工場が創窯されてはいるが、セーブルに買収されて白磁をセーブルに提供する下請けとなり、後に吸収されている。
現在リモージュとして市場に出回っているのは19世紀に建てられた小さな窯の製品が殆ど。中にはアビランドの様に大手に成り上がった工場もあるが。
18世紀セーブルのLLマークの殆どはこのリモージュあるいはパリで作られたコピーであると考えていいだろう。また、現在プリント・マークまで正確に模造した19世紀セーブル・コピーもアメリカで多く見られるが、一応時代はあるもの で、アメリカの一流会社でこのような確信犯的贋物を作ったことは想像し難いし、19世紀の零細会社でこれだけ上手に真似た品を大量生産出来たとも思えない。これらもリモージュ製ではないかと考える。
アビランドの創設者はニューヨークの貿易商だったとかで、製品もほとんどアメリカ向け。他にも同様な窯は多かっただろう。リモージュの3流窯よりセーブルの方が高く売れるのは間違いないところで、殆どのアメリカ人は本物のセーブルなど見たことが無かっただろう。いかにも怪しい。
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